新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

相撲否定派が「相撲」を語ろう

2023-01-21 09:11:16 | コラム
相撲は面白いのだ:

先ず誤解されないように確認しておくことがある。それは「私は相撲をスポーツの範疇に入れるのは誤りであり、あれは江戸時代から連綿と続く我が国独得の歴史と伝統がある『興行』であるのだから」と長年主張してきた。また、President誌上で大前研一氏が「公共放送などを自任しているNHKが昼間から下位の取り組みまでを中継放映するべきか」と批判しておられたのも、尤もだと思わせられた、娯楽の部類に入れたい性質なのだ。

このように私は相撲に対して否定的なのだし、実際に最後に見る機会があったのは「桟敷」からで、それも偶然に招待して貰えた1994年1月のことだった。その際あらためて感じたことは「この興行は飲食を楽しみ、お土産の品物を頂戴する傍ら取り組みも見るような仕組みになっているのか」だった。それに、否定派である以上、滅多なことではNHKの中継放映も見ないし、新聞紙上の相撲の記事などは読もうともしなかった。

だが、何故かここ数年は幕内の後半に取り組みに入ってからの中継を見るようにしている。それは、夕方の各局のニュースが新たな出来事の報道というよりも、何とかして視聴者がチャンネルを離れないようにする為の無理に作り上げた特集物ばかりで為にならないので、その間は相撲でも見て「勝負の綾というか、面白さであり、難しさであり、予測不可能な結果を見て楽しんでいるという事なのだ。

私はバイオリズム(biorhythm)が言う周期性を信じているので、番付が格上で好調を維持し圧倒的に勝つと見込まれてきた力士が、いともアッサリと弱者であったはずの力士に転がされる意外性や、判官贔屓で業師の小柄な力士が圧倒的な体格の差がある番付の上の力士に勝ってくれという願いも叶わず捻り潰されてしまうとか、何故好調で格下でも優勝を狙える力士を遙か彼方の上位の三役にある者に当てて潰そうとするのかなどを、興味深く観察しているのだ。

私は長い間、相撲の取り組みというものは番付の同じような位の力士同士を当てる性質であって、本来はとても大関のような役力士と当たることがなかったような平幕の力士が優勝を狙えそうなほど好調なるが故に、同じように好調である大関などに当ててしまうような事は生じないものだと思ってきた。

だが、近頃では協会なる存在は、何とかして当日の興行の目玉にしようとするのか、昨日の貴景勝対阿武咲のように解説の親方が「本来は大関に当たることがなかった前頭八枚目の阿武咲が当たった」と評したような取り組みが起きるのだ。私は興行としてはそれで良いかも知れないが、当てられた下位の力士は不運だったなと、つい考えてしまう。確かに、このような不当だと思える割り当てでも、先場所の優勝決定戦だったかでは大関の貴景勝は下位で負けるべきではなかった阿炎(だったか?)に負けていた。

私が楽しもうとしていることは「相撲の勝負で起きる意外性が何処から何故、生じているのかを考えさせてくれること」なのだ。その意外性が当日の調子、即ちバイオリズムが低い方に流れていた為に生じたのか、相手のそれが頂上(ピークなんて言えないよ)にあった所為かも知れないし、または油断があったので上手の手から水が漏れたのか、あるいはこの日は運も味方して腕を補ってくれていたのかなどと、楽しく考えながら見ている。

相撲の世界では番付が正当に働いていれば、今場所のように横綱の照ノ富士が不在であれば、最上位にただ一人位する貴景勝は三敗もしないで横綱昇進に向かってひた走っていられたはずなのに、あの不安定振りなのである。昨夜は奮起したのか本来は当たるはずもなかった前頭八枚目を蹴散らしたが、それを恰も快挙の如くに喚き立てるアナウンサーの興奮がうるさかった。あれでは大前氏ならずとも、NHKは相撲協会のお先棒担ぎとしか思えない。

少し真剣な話をしてみよう。私は「相撲」という個人競技(と敢えて呼ぶが)では、他の本来のどのスポーツの範疇に入る競技よりも「個人の強弱」が無残に現れる種目はないと思っている。スポーツの個人種目では陸上競技には「個人の身体能力」がこれでもかというほど表される。だが、陸上競技では対戦相手と取り組んだりはしない。

柔道とレスリングは取り組むが、一定の規則の範囲内での取り組みであり、厳しい反則が規定され累積すれば敗戦となる。だが、相撲は飽くまでも彼らが言う「ガチンコ」であって、私が知る限り反則は「髷を掴んだ場合」のみに思える。それだけに「当日のその場の調子(バイオリズム?)」次第」では「番狂わせ」も「順当な勝ち」も「不運な負け」も生じるのだ。

私も長い間蹴球とサッカーをやって来たが、その日その場で何とも説明が付かない技が出たり、あるいは当然出来るはずだった技が出なかったりするのを経験した。高校の頃のことでは「どうしてあの場面であのようなパスを利き足ではない左足で蹴れて、それが見事に相棒の得点になったか解らなかったこと」があったし、大学では未だにハッキリ覚えている「ペナルティエリアの右の隅の角から左足で相手ゴールの自分か見て左上の隅に鮮やかに決まったシュート」があったが、何故あの位置から無謀にもあそこを狙って蹴ったかは解らなかった。

私には未だ未だ人体というのか、自分の体には解らないこと起きると知っている。それはジムで100mのインドアトラックを歩いて見るときに起きる現象。特にどの速度で歩こうなどとは考えずに歩き出してみている。90歳の今となっては普通には100mは75から80秒はかかる。だが、何の意識もなくというか、速く歩こうとしていなくても、70秒で軽々と3または4周は回れる日があるのだ。

これがその日の調子なのかバイオリズムの所為かどうかなどは解らないが、兎に角不思議なことだと思って歩いている。所が、ジムではなくて、普通に一般の道路をジムの感覚で70秒くらいの速さで歩いているつもりでも、老若男女の全てが私のよたよた振り嘲笑うかのように追い抜いていくのだ。

だが、最早その人々の後ろ姿を見せ付けられても「悔しい」などと思う事もなく「我、老いたり」と素直に受け入れられるようになった。でも阿武咲は昨日の敗戦を素直に受け入れただろうかと、一人静かに同情している。矢張り、あの協会の首脳部の頭脳構造は何処かが少しおかしいのではないのかなと思っている。