新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

「運」と「運命」の考察

2023-01-26 09:08:27 | コラム
90歳に達して「運」と「運命」を振り返って考えてみた:

先日、湘南中学以来の級友(即ち、同期生)と90歳になった事を語り合ってみた。彼は70歳代後半になって庭仕事をして腰骨を粉砕骨折して長期療養せざるを得なくなった後では肺癌を患うなどして、今では杖なくして行動出来ないと言いながら、明晰な頭脳は変わっていない。私は「この年齢にまで達し得たことは有り難いと思うが、これほど頻繁に命に関わる病気ばかりでは」と嘆いてしまった。

彼が言うには“「人生僅か50年」の時代から今や「100歳が当たり前」と言わんばかりになった。長生きすれば短命の時代とは違って大病に罹るのは仕方がないことだと思うべきでは”なのだった。彼は更に「君は幸運だと思うべきではないか。それは奥方が健康で二人で暮らせている事を言う」と指摘した。それと言うのも、彼自身が離婚経験者であり、級友には奥方に先立たれたか、施設入させている者が多いということを考えて見ろ」と言うのだった。

確かに不思議な現象で、私の友人知己には何故か彼が指摘したような不運(辛い状況とでも言うか)に見舞われている人が多いのだ。そう言われて見れば、私は確かに運が良いのだろう。それでは「運」とは何だろうかとか暫く語り合ってみた。その辺りと私がその時の意見交換を基にして「運」と「運命」をあらためて考えてみた。些か私事を語ることになるが、ご一読賜れば幸甚だ。

私はこれまでに屡々自分の人生を振り返って「運と運命(悪戯)に突き動かされてきた」と述べてきた。また、「運とツキを腕で消してはならない」とも言ってきた。その「運」とは如何なる事を言うのかと、好みである英語から考えてみようと和英辞典を見ると“luck”と出てきた。そこでOxfordを調べてみた。そこには“good things that happen to you by chance, not because of your own efforts of abilities“とあった。

今回は敢えて訳してみると「貴方の身に貴方の努力や能力のお陰ではなく、偶々生じた良き事柄」とでもなるだろうか。では「運命」はと言えば“destiny”だそうで、これは“what happens to ~ or what will happen to them in the future , especially things that cannot change or avoid”とOxfordには出ていた。これは「将来貴方の身に降りかかる変更することも避けることも出来ない事柄」とでもしておこうかと思う。

矢張り一神教の国の人たちが考えそうなことだと思うが、私は妙に納得している。それは自分のことだけを振り返ってみれば、39歳でアメリカの会社に転進するようになった切っ掛けは将に「運」(=luck)だったと思えるからだ。尤も、そういう前提には「アメリカの会社に転じたことがgood thingsのうちだと決めていることになるのだが。

長くなるが思い出してみれば国内市場の担当者になって「もう英語は趣味にしても良いか」と考えていたときに、私よりも5年前にアメリカの会社に転進していたM君が彼の会社が製作した「情報用紙の専門用語の語彙集」を「君の好みだろう」と言ってくれた。その中で「複写能力」を英語で何と言うかを覚えていた。所が、69年だったかに本来私が受けるべきではなかった我が社が新規開発したノーカーボン印刷用紙についてUKの製紙会社代表の日系カナダ人のインタービューの席に臨む「運」がやって来た。

その代表者は我が国の紙パルプ業界の輸出入の分野では大有名人だったそうだが、国内市場の担当だった私はそんな事とは露知らず、その有名な日系カナダ人が英語でメモを取っている中で「複写能力」を間違えていたのを見て「それ、違います」と、親切にも(?)つい教えて上げたのだった。後で聞けば「俺の英語を直すとは」と驚いたのだそうだが、その瞬間に「この人は英語が解るのだ」と読んだのだそうだ。

それから彼は私にUKからやって来た本社の研究員の博士と、日本の事務用紙の専門会社の社長との会談の通訳を私に押しつけてきたのだった。すると、16年以上も放置してあった英語が予想以上にスラスラと出てきて、何とか仕事が出来てしまった。その後の私の社内における立場を見た彼GK氏は「君は日本の会社に向いていない。外資に変わるべきだ」とMead Corp.を紹介してきたのだった。

そして転進することになったのだが、ここまでに長々と述べてきたように、M君が私に語彙集をくれたことに始まって、「複写能力」(write throughなのだが)をたった一つ覚えていて、GN氏に注意してしまった事態に繋がったのだった。そして、説明は省略するが、社内で微妙な位置に立たされたのにはGN氏も関係していたことを気にかけて、転進を勧めてきたのだった。

そして、6ヶ月間も会社を辞めることが大変困難なことだったと辛酸をなめた後でMeadに転進し、次には関係した全部の方が「これほどの偶然(運)があるのかと、その後数年語り合った「運」で、どのような企業かも良く知らなかったアメリカ第2の紙パルプ・林産物企業のウエアーハウザーに二度目の転進をしてしまうことになったのだった。

この「運」(=luck)は夢でも思いつかないだろう出来事だった。それは、GN氏の事務所をMeadの関連事業だったカナダの木材会社の駐在員と訪れたときだった。用事を終えた後で、私が一件だけGN氏に伝えることを思い出して再度上に上がって数秒間用件を伝えていた。すると、そこには知り合いだったウエアーハウザーの代表者だったYN氏が入ってこられた。軽く挨拶して別れた。

YN氏は私が19年間勤めることになった当時は空席だった事業部の日本駐在マネージャーの適任者が見つからないので、GN氏に「何処かに良い候補者はいないか」と依頼しに来られだそうだった。その頃、偶々Meadではパルプ部門の再編成に着手していて、私がまたまた微妙な立場にあると知っていたGN氏が「たった今帰って行った彼なら取れるかも」と推薦し、結果として採用に決まってしまったのだった。

YN氏とGN氏は親しい間柄だったそうだが、GN氏のオフィスを訪れることは滅多になかったそうだし、私がGN氏に伝えるべき事を忘れて数秒間再訪しなければ、YN氏とすれ違いでも出会うことはなかっただろうということ。このような「運」がその1974年から動き出して、今日までの私の人生の大きな流れを決めてしまったのである。

あの時にYN氏とあの場所で数秒でも顔を合わせていなければ、私は恐らく「日本とアメリカの企業社会における分化比較論」などを語るようにはならなかっただろうし、アメリカのビジネスの世界の支配層の人たちの日常にも触れられなかっただろうし、猛烈などというものではない彼らの働き方と仕事の進め方にも接する機会はなかっただろう。私的なことを言えば、藤沢市を離れて東京都内に暮らそうとは考えなかったろう。

言いたかった事は「あの1960年代後半にM君が私に語彙集をくれたことが、私の運命(destiny)を決めてしまったのではなかったかと、ずっと考えてきている。あのM君がくれた語彙集は否定ようもないほど私の将来に大きな影響を与えたのだろうが、そこで与えられた「運」に逆らわずに何とか幾多の逆境をも乗り越えてきたのだとも考えている。

具体的に逆境の例を挙げてみれば、仕事復帰に半年を要し危うく職を失うところだった1985年10月のシアトルでの自動車の貰い事故、2006年1月の最初の心筋梗塞がある。私自身が不思議なことだと感じていたことは「これは非常に深刻な事態だが、私は必ずこの苦境を乗り切って社会復帰するのだ」と何の根拠もないままに閃いて、無邪気にそれを信じていたら切り抜けられていたことなのだ。私はこれぞ「運命」即ちdestinyで乗り越えられるとの定めがあったのだと考えるようにしている。

麻雀では、「ついているかいないかも腕(実力)のうち、ツキを腕で消さないように」と聞かされてきた。私は「運」を何とか取り込んで、何とか巧みにその波に乗っていくのも腕のうちだろうが、その前に「運命」(=destiny)があるように思えてならないのだ。90歳まで「運」を使い果たさずに過ごしてこられた。これからも「腕で消さないよう」万全の努力を怠ってはならないと思っている。