新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

我が90年の回顧

2023-02-17 08:44:49 | コラム
1951年からを回顧すれば:

上智大学に入学した年だった:
上智を志願するようになった背景は省略するが、お恥ずかしながら「カトリックのイエズス会の大学で、英語の教育が優れている」という程度の予備知識で入学した大学では、驚くようなことばかりに出会っていた。言うなれば「異文化との遭遇」だっただろう。

それは誰か同級生が「幼稚園でもここまでやらないのでは」と形容したほどの規律の厳しさだった。後になって考えれば、二進法の思考体系である一神教のキリスト教の考え方でヨーロッパ人の神父様たちが運営されるのであれば当然だっただけのことなのだが、それはそれは厳格だった。

規則の厳守:
先ずは朝登校するときに制服である学生服を着用し制帽を被っていないと、校門に待ち構えている神父様に学生証を取り上げられ、学務課で当時の50円を納付しないと返して貰えなかった。この学生証取り上げの適用範囲は、学舎の廊下と教室内では禁煙にも適用されていた。必須科目の授業では全員の座席が決められていて、学務課の係員が後部から出欠を記録していた。

出欠席:
出席は全科目で厳しかった。欠席が年間に30%を超えると試験を受ける資格を失うと決められていた。特に1年次では哲学と宗教学が必須だったので、受験資格を失うことは即落第となるのだった。必須ではない科目では出席票を学務課員が回収して回るのだが、この方が強烈で全員の顔と氏名を記憶していたので、インチキなどすると即刻「君のカードが出ていたが、顔は見えなかったね」と欠席に記録されるのだった。

宿題とリポートの期限内の提出:
近年「アメリカの有名私立大学等で膨大な量の宿題や、リポートの提出が求められるので新入生は苦労する」という話が広まっているようだ。一例を挙げれば「何千頁にも及びそうな学術書を渡されて来週までに概要を纏めよか、感想文をリポートとして提出が求められ多いに苦労した」というようなことだ。実は、こんな事は1950年代の上智大学では教授である神父様たちからはごく普通に課されていたことだったのだ。

私も同期生たちも「そんな事が1週間できる訳がない。無茶苦茶だ」と嘆いたものだった。問題はここからで「できる訳がない」と放り出した場合には参加しなかったのだから「零点」の評価となる。だが、不完全であろうと何だろうと、何らかの形で提出すれば最悪でもギリギリの合格点は与えられるのだった。

これなどはヨーロッパ/アメリカ人たちの「二進法の思考体系」の権化のようなことで「参加の意思の有無」が評価の対象になるのだった。この試練を経ていたことは、後年アメリカ人の中に入って非常に役に立った。言い換えれば、会議などに出席して発現しない者は「居ないのも同然の無用な奴」という最低の評価をされるということ。この辺りは明らかな「文化と思考体系の相異」と言えるだろう。

君は欠席が多かった:
当時の上智大学ではアメリカ人で未だ神父に成れていない講師が「英会話」を担当していた。会話の授業なのだから、全員が英語で講師と語り合うのだった。私は大学に入った頃にはごく普通に英語で考えて英語で話す事が出来ていたので、同級生全体の誰よりも良く活発に語ったと自負していたし、成績も良いはずだと信じていた。

所が、学年末に通知表を見れば70点で、自分よりもうんと少なくしか発言していなかった者たちが100点を取っていた。「納得出来ない」とばかりに、その講師の部屋に押しかけて、それこそ“Why?“と猛抗議してみた。彼は平然として採点表を一瞥して「君は欠席が多かったので」の一言。黙って引き下がった。それは、私は家庭の事情もあって受験資格停止に成らない程授業に出ないでアルバイトに精を出していたのだったからだ。

尤も、往年の上智大学では事情を学務課に報告してアルバイト届けの用紙を貰い、勤務先で証明の印鑑を貰って提出すれば30%以上の欠席があっても受験資格を与えるという制度があったのだ。私は三越銀座支店に証明して貰えていたのだった。だが、出席点、平常点、試験、リポート等の広告を合計して割り算をして、当時の合格点である51点を超えれば単位は貰えたのだ。私は単純に出席点が悪くて全体の評価の足を引っ張ったのだった。

君は「規則を遵守します」との宣誓書に記名捺印して入学したではなかったか:
これは強烈だった。ドイツ人の神父様の教授の授業だった。本来そこに座っているべきではない隣の者と密着していた学生に、教授が「離れなさい」と注意された。彼は「教科書を忘れたので見せて貰っています」と弁解した。

教授は「教科書を忘れたとは何事か。私の授業に出る資格はない。直ちに退出しなさい」と厳命。彼は止せば良かったのに「それは厳しすぎませんか」と抗議した。教授は言葉を継いで「教科書を持参して来るのがあるべき姿勢だ。それを守れないのでは退出は当然。君は入学したときに大学の規則を遵守しますと記名捺印したでしょう。それを守れていないのでは退出させられるのは当然だ」と言われた。以上、全部が日本語で、だった。

その同級生は「そう言われるのであれば、たった今ここで大学を辞めます」と言って教室を出て行き、実際に退学してしまった。

この頃の上智大学と、現在の在り方が同じかどうかなどは知らないが、今にして思えば将に「異文化との遭遇」だったよう。

無事に上智大学を卒業出来て就職に至った1955年から先の回顧談は後日に譲ろう。