新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

私のカタカナ語論

2023-02-23 08:48:02 | コラム
カタカナ語排斥論者のカタカナ語論:

先ず敢えて申し上げて置きたいことがある。それは「カタカナ語論に興味か関心をお持ちの方は是非ご一読を」ということなのである。

つい先日、ある方に「近日中にカタカナ語論を纏めます」と申し上げてしまった。だが、いざ纏めるとなればかなりな超長編になってしまいそうで、どのように処理すべきかに悩んでいた。そこで昨夜床についてから漸く考えが纏まって、長くなるのを覚悟で連作にすることでご理解願おうと決めたのだった。

カタカナ語が日本語を変えてしまうのではないか:
1990年の春頃から業界の専門誌にエッセー風の連載を開始した頃には「カタカナ語を話の中に混ぜて英語の単語をそのまま使う人を見かけるが、その人物は如何に知性と教養があるかをひけらかしているだけのキザな存在ではないか」のように表現していた。

その頃の記憶を辿っても、当時頻繁に出てきた英語の単語が「ドラスティック」(=drastic)しか出てこないのだ。「徹底的に」か「思い切って」と言いたいときに使われていたと思う。だが、不思議なことにアメリカ人の中にいて、そう言いたくてdrasticを使われたのを聞いたことがなかったが、dramaticは聞いた記憶がある。思うに「言いたいことを強調する為に、英語の単語をカタカナ式発音にして使ったのだろう」と解釈していた。

だが、現在のカタカナ語は強調する為だけに使われているのではなく、日本語を構成する重要な要素である漢字の熟語か成句の代わりに使って、如何なる事態か等を雄弁に語らせているようになっているのだ。これだけでは意味不明だろうから、具体的な例を挙げてみよう。

「クリヤー」:
これはほんの一例だが、先ほどテレビのニュースで「~することで、課題をクリヤーした」と説明していた。この「クリヤー」は大変便利というか重宝に使われていて「飛び越す」や「~を達成する」や「取り除く」と言いたいときに使われているようだ。“clear“を動詞で使えば、その通りの意味があるので誤りだとまでは言えない。

だが、「クリヤー」の代わりに「課題を達成出来た」か「問題となる点を排除した」とすると、漢字ばかりで固いというか難しい感じを与えるので、一言「クリヤー」で済ませるようにしたのではないだろうか。もしかすると、カタカナ語製造業者は「現代人にはこのような小難しい表現は理解されないかも知れないと無駄な配慮をして、カタカナ語で代用したのではないかと、私は本気で疑っている。しかも、カタカナ語にする方が格好も良いのだ、彼らの考えでは。

英語のclearをジーニアス英和とOxfordの辞書で見れば、両方とも形容詞としてのクリヤーが先に延々と出てきて、動詞の方が後だ。Oxfordでは「求められていないか必要がないものをその場から取り除く」と出ている。「~に触れずに跳び越える」は16番目に出ているが、「達成する」は見当たらなかった。要するに、日本語になっていて、英語の単語の転用ではないようなのだ。

「イメージ」:
これも漢字の熟語か成句を使って置き換えると冗長なフレーズになってしまいそうな使われ方がされていると思う。私は何度か「イメージ」ではなく普通の日本語に置き換えようと試みたが(「チャレンジした」とでも言えば良いか)、かなり長たらしい文章にしないと説明にならないので諦めたのだった。

例えば「~と言えば、こういう風にイメージできる」のような表現で通用するだろうが「カタカナ語はダメよ」とばかりに漢字の熟語などを使って説明しよう思えば「~はこのような事態か現象だろうと思い浮かべてみれば」のようになってしまうのではないか。また「どうなるかイメージできなかった」は「どのようになるか想像出来なかったか、想定は不可能だった」となってしまうので、理屈っぽい感が出てくるのではないか。

Oxfordには「ある人物か組織か製品等が公(オオヤケ)に与える印象」と真っ先に出てくるが、ジーニアスでは「印象」と「表現」が出ているので、こちらから取ってカタカナ語にしたのだろうが、Oxfordの詳細な表現を「イメージ」だけで表せるようにしたのだから、上手いものだと感心させられる。最早日本語の一部となったカタカナ語であり、英語の単語であるimageとは別物だと認識しておく方が無難ではないか。

「チャレンジ」、「サポート」、「コンパクト」:
この他にも数多く同類があると思うが、何れも英語の単語本来の意味を表している場合もあるが、多くは「そういう意味でも使われている」表現をカタカナ語化しているのだ。例えば「チャレンジ」をジーニアス英和で見れば「人が陳述、資格などを問題にする、疑う、異議を唱える」が出てくるので、近頃野球でもフットボールでも使われ出した「チャレンジ」即ち「判定に異議を唱える」事であり、「挑戦」はカタカナ語のような一義的な意味ではないようなのだ。

今回の結び:
という次第で、長い説明文か文節になりそうな日本語での表現を避けて、何となく座りも英語を良く知っていそうな感を与えそうで格好も良さそうなカタカナ語を使う傾向が顕著になってきたのだと、私は考えている。そこには、上記のように英語の単語の意味を都合が良いように切り取って使う流れも見えている。

後難を恐れずに言えば「単語偏重の英語教育の欠陥である、単語の意味だけを知っても、文章の流れの中での使い方が解っていない」が悲しくも現れているのだ。即ち、学校教育における英語の教え方を根本から変えない限り、今後ともカタカナ語は乱造され、日本語(漢字)の熟語や成句を置き換えていく流れは止まるまいと思う。

だが、何度でも同じ事を言うが「最早日本語の一部として定着してしまったのだから、それらカタカナ語をどのように使おうともご随意に」なのである。さらに「でも困った現象だ」という気持ちは変わらない。