新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

1955年(昭和30年)のことだった

2023-02-18 08:22:41 | コラム
財界四天王の一人水野成夫氏が経営する会社に就職した:

2023年の現在に「財界四天王」なといって、覚えておられる方がどれほどおられるかと危惧する。順序不同でいえば国策パル工業社長の水野成夫氏(東大卒で共産党員から転向)、日清紡績社長・桜田武氏、富士銀行頭取・岩佐凱実氏、富士製鉄社長・長野重雄氏だった。今でも当時の社名が残っているのは日清紡績だけだろう。

私はその水野氏が経営する国策パルプのグループ企業で商事部門の日比谷商事に採用されたのだった。国策は水野氏が同じく共産党からの転向者だった南喜一氏と起こした大日本再生製紙と宮島清治郎氏の国策パルプと合併させて誕生した会社だった。水野氏は国策パルプの販売部門の会社にと、旧三井物産が解体された後で紙業課の有志が起こした三洋産業を買収して「日比谷商事」としたのだった。

国策パルプのグループ企業には他には専売公社(当時)に煙草の巻紙(ライスペーパー)の納入する公社公認のメーカー三島製紙(現日本製紙パピリア)、セメント用のクラフト紙袋加工製造の千代田紙業があった。お気付きの方もおられると有り難いが、皆社名に地名を冠してあるのが特徴だ。

国策パルプはそもそも戦後にはレーヨンパルプを主として生産する会社だったので、今では死語かも知れないレーヨンパルプ生産の「パルプ6社」の一社だった。念の為、6社の他の5社は興国人絹パルプ、山陽パルプ(現日本製紙)、日本パルプ(現王子製紙)、東北パルプ(十條製紙→日本製紙)、北越製紙(現北越コーポレーション)となっていた。

「レーヨンパルプ」(DP)は木材のパルプをヴィスコース法で溶かして繊維状にして木綿の代用にする人造絹糸(ステープルファイバー、略して「スフ」)を生産する為のパルプだった。戦後は絹も木綿も不足していたので、レーヨンパルプから「スフ」を製造して代用にしていたのだった。だが、その需要が時代と共に減少したので、6社は競って製紙に進出して行った。国策パルプもその販売部門の強化に日比谷商事を設立したのだった。

業界に入って知り得たことは「紙パルプ産業界は戦前の王子製紙が解体させられて誕生した王子製紙工業、十條製紙、本州製紙の「王子三社」を中心にして回っており、流通分野でも三社の代理店(一次販売店)の中井商店、大同洋紙店、富士洋紙店、大倉洋紙店、博進社、服部紙店、万常紙店、岡本商店等々が洋紙代理店会の有力会員だった。国策パルプはその王子三社中心の世界に後発ながら挑んでいったという形だった。

1955年4月時点の日比谷商事は言わば発展途上にある総勢50人程度の規模だった。だが、旧三井物産の後を引き継いでいたので、管理職には営業部長、総務部長、大阪支店長は旧三井物産の社員で東京商大(現一橋大学)出身者、紙業課長も物産出身で東京外国語大学出身、パルプ課長は東大出身という具合で未だ未だ三井物産色が濃厚だった。

社長は国策パルプ常務取締役の南喜一氏が兼務されていたが、実際に代表取締役専務で指揮を執っておられたのが西村謙三氏(東大卒、旧横浜正金銀行パリ支店長代理)だった。西村氏と当時の国策パルプ専務取締役加藤英夫氏は東大の同期で同じラグビー部の出身者だった。当時の山陽パルプの社長だった商工省出身の難波経一氏も同じく東大のラグビー部だったと漏れ承っていた。また、加藤英夫氏は安田銀行取締役小舟町支店長からの転進者だった。

加藤英夫氏が安田銀行(後の富士銀行で現在のみずほ銀行)から転じてこられたことが示すように、国策パルプは富士銀行の芙蓉グループの一社だった。だからと言うか何と言うか、富士銀行の岩佐頭取のご子息・海蔵氏は国策パルプから後年水野成夫に付いて産経新聞に転進されたし、長野重雄氏の三男重正氏は国策パルプの営業部門におられた。

この国策パルプが後年の業界再編成の大波にのまれたのか、山陽パルプと合併して山陽国策になり、更に十條製紙との合併で日本製紙となっていったのだった。日比谷商事も私がMeadに転進した直後に山陽パルプの系列の販売店だった三洋商事(元は旧三菱商事)と合併して三洋日比谷になり、更に日本製紙グループの販売部門である日本紙通商へと進化していった。

余談になるかと思うが、西村謙三氏の長男・正雄氏は当方と湘南中学以来の同期生だった。西村正雄君は東大から日本興業銀行に就職し、同銀行最後の頭取に就任して、あの第一勧銀と富士銀行との三行合併を成し遂げた人物である。言いたかった事はと言えば、西村君は当方が就職したと同時に言わば社長の息子さんになってしまったのだった。西村君は興銀の頭取とは激職だったようだ、2006年に73歳で亡くなっていた。

以上主に記憶を辿ってきたので、誤りがあればご容赦願いたい。途中で、念の為にWikipediaで水野成夫氏と南喜一氏の写真を見たときには、懐かしさで涙溢れる思いがした。