新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

英語の学び方を考えて見よう

2023-05-18 10:04:16 | コラム
何の目的で、どのように英語を教えるのか、勉強するのか:

私の英語の勉強論には、残念ながら未だに理解しようとなさってくれない方が多いようだ。当方が言いたいことは「何もペラペラと話せるようになろうとか、難しい英語の論文や文学書を原書で読みこなせるようになろう」というための勉強法を論じているのではない。

畏友フラン文学者のKT博士は「日本の英語はどこまでいっても試験英語で、話すとか書くが問題ではなく、試験の点数を上げることが問題ですから。」とズバリと指摘された。同感だ。私が論じているのは将にこの点なのだが、表現が拙いのか、未だに理解してもらえていないようだ。

即ち、中学・高校・大学での学校の英語の試験と、TOEIC、TOEFL、英検などの試験で良い成績を上げることを目標にして教えられ、それに従って勉強に励んできたのだ。これは何回も取り上げた女性の英語教師の発言「英語を話せるようにするために教えていない。生徒を5段階で評価できるように差が付くように教えているのだ」が、ピッタリと当てはまっているのではないのか。要するに「学校の成績の一科目」に過ぎないのである。

であるから、その教えられ方で最短でも中学から6年か、大学までで8年も懸命に勉強して試験で良い点が取れるまでに進歩しても「英会話」というか、「英語で自分の言いたいことが思うように言えないような力」しか身につかないのである。これは当然の結末である。例えば「英文法」などを厳しく教えてしまうと「自分が表現したいことを、何としても文法の枠に中に収めようとするから、混乱が生じてしまう」のではないのか。

「英語とは発想も文化も異なる外国の言葉であるし、非常に不規則な点が多いのであるから注意するように」と、何も中学(小学校?)から言い聞かせる必要はないと思うが、中学以降の何処かの時点で因果を含めておく必要があるのだ。より厳格に言えば「文化(=言語・風俗・週間・思考体系の違い)もキチンと知らしめておくべきだと思う。

私が知る限りでは某私立大学ではナンシー坂本さんの名著“Polite Fictions”をテキストに使っていた。私はこの本は万人に推薦したいとすら思っているほど、文化の違いから来る齟齬を書き表しておられるのだ。その一例を挙げておくと「Questions, Questions」(だったと思うが)章があった。

これは、「アメリカ人は小さく謝意を表するときに質問をしてその感謝を表現する」という話だった。例えば、京都観光に外国人を案内すると何千年も前に建築された美しい寺院の屋根が見事に左右対称系にできているのを見て「あれほどの昔の技師たちはどのような器具を使ってこの建築をしたのでしょう」などと発言することが多い。このような難問は方々で発せられるのだ。

すると、多くの案内の方かガイドの方は「正解」の用意がない場合が多いので大慌てで「良く資料を調べて後ほど正確にお答えしますから暫時お待ちを」等と汗を拭き拭き答えることになる。そして、懸命に調べてお答えする。ところが質問した方は「案内に対する軽い謝辞の表現だった」のだから、質問したことすら覚えていないのが普通。だから感謝に意を表さない、「何だ。折角調べてきてやったのに、無礼な」と不快になるのだ。

私もこの経験をしていることは既に取り上げた。アメリカの工場から来た技術者の団体を某大印刷工場の製品展示場に案内して頂けたことがあった。素晴らしいアイデイアを駆使した新開発されたばかりの容器があった。技術者の1人が勿論感謝の意を表すべく「この容器の素材は何でしょう」と、案内役の購買部長さんに問いかけた。

部長さんは一瞬顔色を変えて「存じませんので担当部署に尋ねてきます」と席を外されてしまった。アメリカ人たちはさして気にもしなかった。そこに部長さんが戻られて私に「担当が外出中で帰社次第聞いてお答えします、ところで、今晩お泊まりのホテルは」と尋ねられた。ここで、迂闊にも私は気が付かずにホテルをお知らせした。

すると、夜の9時過ぎに部長さんから電話があった「大変返事が遅くて申し訳ありませんでした。素材はあれとこれでした」と言って。うっかり者の私もこれで漸く思い出した。質問が出た現場で「お気になさらなくて結構です。お忘れくださって問題ありません」と申しあげておくべきだったのだ。大いに反省した。

私は今日までに繰り返して「我が国とアメリカの企業社会における文化比較論」を取り上げ、思考体系の違いも解説してきた。だが、それ等以外にも英語という言葉には「このような表現の仕方に違いがあるもの」なのである。万人がここまで英語を決める必要はないとは思うが、会話という現場ではこのような「想像もしていなかった食い違い」が生じるものなのだ。ここまで来れば「英語を流暢に話せるかどうか」という問題ではないのだ。

論じ始めればキリがないが、今回は以下の件を取り上げて終わりにしておこう。それは「native speakerを連れてきて英語を教えてもらうのが最上の手段」とは考えるなという点だ、私は英語で意思の表現もできるし、相手が言うことも理解できるはずだと思って1972年8月に生まれて初めてアメリカに行った。飛行機の中で隣り合わせとなったアメリカ人と普通に会話が成り立った。

ところが、サンフランシスコ空港で乗り継ぎ便を待つので構内をウロウロしているときにまた彼と再会した。彼が“Are you still hanging around. I’ll buy you a drink.”と話しかけてきた。正直に言って「???」だった。それは「未だウロウロしているにか、それならば一杯おごるよ」と言ったのだったと、後になって解った。彼から見れば「機内で普通に会話ができていた者が、このような日常会話の表現が解らない」とは考えていなかったのだろう。

言いたいことは「アメリカ人たちは日本人たちが意思の疎通を図ろうとするときに、如何なる表現で苦しむか、日常会話に使われる口語的な言い回しや慣用句を知らずに苦しむ」とは知らないのである。もっと解りやすく言えば「日本人(外国人)はどういう点で苦しみ悩むか」などが解るはずがないのだ。そのような理解度が低い者たちに英語を教えさせることが得策かどうか考えて見よ。

翻って、自分たちが外国人に日本語教えられだけの学識経験があるか、方法を承知しているか、国語の文法を覚えているかを反省してみれば良い。私は「自国を離れて日本に来て英会話を教えようと企むような連中に、ハーバードやスランフォードのMBAやPh.D.がいるか」と指摘した。亡き母が言った「日本にやってきて一旗揚げようなどというのは食い詰め者ではないか」と。

結論を急ごう。私の長年の主張は「日本人で英語圏の文化の違いを弁えて、英語という言語の特徴を充分に承知して、現実にアメリカなりUKの世界で彼等の中で仕事ができていたか、彼らの中で研究生活ができていたか、彼らの文化と思考体系を知って、その中で普通に彼らと交流して生活ができていたような方が教える」のが最善だと思っている。

そういう実力を備えて、彼らの文化を承知されている方には、私は何人もお目にかかってきた、だが、遺憾ながらそういう方々は功成り名遂げて引退されてしまった例が多く、今さら教壇に立とうとはお考えにはならないと思う。だが、勿体ないことで、こういう方々の活用法をも考えてはどうだろうか。

この件は未だ続けて論じていこうかと考えている。