アクリル板の始末をどうするのだろう:
5月8日と10日にジムに出かけて、入り口にディジタル式の体温計がなくなっている事に気が付いた。同様にバスの停留所前のドンキホーテのレジスターのところでも、「まいばすけっと」でも、塩化ビニルか高密度ポリエチレンか知らない膜が垂れ下がっていないと気が付いた。方々で通行人を観察しているが、マスク無しの人は1割もいないと見た。
ジムの受付カウンターにもアクリル板がなくなったし、ストレッチ用のマットを拭くアルコールもタオルペーパーも置いてある。9日に診て頂いたかかりつけのクリニックではアクリル板はそのままだった。係の女性に尋ねると「ワクチン接種は区役所から送付された接種券を持参すれば予約無しでやって頂ける」とのことだった。5類に変わった恩恵がここに現れたかと思った。麻雀で言えば「リャン・ウー」の筋じゃないかと見えたが。
アクリル板が考えられるあらゆる場に出てきたときには「この業者は短期的な需要の急増をどのように受け止めているのか」と「一旦事態が収束した後にあの大量のアクリル板をどう処分するのか。樹脂である以上、リサイクルかリユースできるのか」とも考えていた。あれを導入するときには「後先を考える余裕はなかったのかも知れないな」とも見ていた。
思えば長い3年間だった。如何なる権威があって仕切るのか不明だった尾身茂氏が何処まで貢献されたかは、未だに良く分からない。しかも、岸田内閣になってからはサッパリとテレビでは見かけなくなった。菅内閣時代には総理大臣と並んで記者会見をされた権威は何処に行ったのかと思う。彼を良く言う医師の方にはついぞお目にかかれなかったが、仕切っておられたという印象だ。
当方はこの権威者が「オーバーシュート」という言葉を使い始めたときから、一切信用しない事にしていた。その理由は簡単で、overshoot等という見た事も聞いた事もない単語を、その意味を知らずに使う感覚が信用できないと思ったからだ。英語の単語を使えば如何にも権威者であるかの如くに人々を惑わそうとする感覚を認める訳にはいかなかった。だが、尾身氏が支配しておられた頃の方が感染者の数が少なかったように見えるのは何故だろう。
当方は尾身時代には「責任回避ばかりで、何かと言えば尾身氏に任せてしまう」と西村康稔担当大臣を批判した。加藤勝信官房長官(当時)にしても同様だった。だが、河野太郎大臣の力量かどうか、ワクチン接種が広まった後の方が感染者の数は多いのだ。
こういう事態を批判する気はない。というのは誰も経験した事がない「新型ウイルス」なのだから、有効で適切な対策が最初から取れる訳がないと見ていたのだから。しかも、我が国は先進国の中で最も感染者の数を低く抑えていたという実績もある。ではあっても、マスコミは政治の批判を続けたし、野党は不満だと言うだけだった。我が家では息子2名が感染したが無事に退院したし、高齢の夫婦は感染する事なく生き延びた。
正しく恐れて、慎重に行動すれば何とかなるもののようだが、正直に言って「外出する事」には恐怖感があった。マスクは二重にすれば効果がある等と聞けば、マスクには「ディフェンスの効果は乏しいが」と聞かされていても、「それでもやってみよう」とばかりにAdidasのロゴ入りのマスクをデパートで買ってきた。国立国際医療研究センター病院の主治医の「日頃の行動範囲を逸脱しないように」と具体的なようで抽象的な指示をしっかりと守った。
だが、野球場が満員になり、インバウンド様たちが街中に溢れていると聞けば、2類の時の方が安全ではなかったと、一人密かに危惧している。だってそうでしょう、近い将来に迂闊に感染すると薬価も上がっているかもしれないし、近場では発熱外来が増えていないかも知れないのだから。インフルエンザと同程度だと言われれば、あの高熱を経験していれば決して安心していられる性質ではない。
結論は「自分の身は自分で守れ」という事しかないと考えている。その守り方だが、2類時代の方式を続行する事しか考えられない。とすれば、在庫がなくなりかけて来たマスクを買いに出ていなければなるまい。昨日も注意して観察していたが、ジムの中にマスクをしていない者はいなかったし、「マスク着用」の掲示もなかった。間もなく中国からの観光客が来るそうだが、それが吉と出るか凶と出るかを見守っていこうと思う。そんなときにG7だそうだ。