カタカナ表記の問題点から我が国の英語教育を考える:
我が国の英語教育を分析してみれば:
これから言う事を「うるさい奴だ。また同じこと言うのか。我が国の英語教育の批判か、聞き飽きた」のように解釈されることなく、私が英語教育について何を主張しているのかを良く読んで頂きたいと真剣にお願いする次第である。
昭和20年(1945年)に中学でそれまで見たこともなかった敵性語の英語を、生まれて初めて学び始めた。その暫く後になってGHQの日系人の秘書の方に「英語で話すにはどうすれば良いか」を基礎から厳しく教えられた。
それほど難しいことではなかった。「英語を聞けばその意味は英語のままで覚えること」、「英語だけで考えるように努める事」、「何か言おうとするときに、先に日本語の文章を考えないで英語から考えるように」だった。中学1年で英語を勉強し始めたばかりの私にとっては無理難題だったが、できる限りやってみた。秘書の方からは全て英語だけで話しかけられ、解るまで繰り返して同じことを言い続けられた。すると、不思議なことで何回目かでは何となく解るようになるのだった。
勿論、私の方からも英語でしか話しかけることが許されず、その表現が間違っていれば無視され、解ってもらえるまで何度も言い直させられた。そうやって覚えた例文の一つは今でも出てくるが、“Hold this umbrella for me a minute. Will you?”だった。「一寸、この傘持ってて」なのだが、このように言えるかお試しあれ。先ず“for me”が出てこないと思う。この辺りが英語のしつこさであり理屈っぽさなのだ。所謂「日常会話」とはこういう具合になるのだ。
このようにして、学校での「科学的な英語学」と平行して、言うなれば実用性を勉強していたのだったが、最大の違いは「英語だけで考える」という、いわば「英語脳」を育て、「日本語で考える脳」との間を行き来するようになっていたと思う。言うまでもないかも知れないが、この秘書の方の発音は私が正調だと主唱する「アメリカ西海岸」のアクセントだった。
私はこのようにして英語を学んだので、それからウエアーハウザーをリタイアするまでの49年間に「この日本の学校教育で英語を勉強されたのだな」と解る方で「正確であり綺麗なnative speaker的な発音」で、英語で話す方には出会えた事は殆どかった。ここでは外資に勤務していた人たちは除外して論じている。後難を恐れずに言えば「アメリカの会社に勤務されている全員が流ちょうなアメリカ語で話している訳ではない」のであるが。
何方でもご承知の事だと思うが、英語の発音は言葉の種類が違う日本語とは全く違う。だから簡単にはnative speakerの発音のようにはならないし、できないと言って良いだろう。かく言う私は「アメリカ西海岸式とキングズ・イングリッシュの中間のような発音」にしていた。これは、戦後に英会話をラジオで教えていたジェームス・ハリスという人の助言に従ったこと。卑下して言えば「どっちつかずの発音」と言えるかも知れない。そうした理由は「アメリカ式よりもキングズ・イングリッシュの方が真似しやすい」のだから。とは言っても、戦後間もなくからアメリカ式を教えられ、22年のアメリカ人の中にいたのだから、英連邦寄りとはなっていないと思う。
興味深い事は「この中間だと思っていた発音はカナダとオーストラリアでは“beautiful English”だと褒められる場合があるのだ。自慢話ではない。彼らはアメリカが嫌いなのだから「アメリカのアクセントではないのが宜しい」と褒めるのだ。ご存じの方はおられると思うが、意外にも、カナダは現実にはアメリカと余り仲が良くないのである。
だが、今日までに確認できた実態では「我が国にはかなり格調が高い英文を書き、かなり正確な英語で外国人と話ができる方は多いが、事発音となるとローマ字式か、悪い例では(失礼を顧みずに言えば)外国人離れした『ジャパングリッシュ』とでも言いたいような奇妙な発音になっている方がおられるのだ。私はジャパングリッシュになってしまう原因は「そもそも、最初に中学か小学校で教えた日本人の英語教師の発音がそうなっていたので、そのような発音の先生に教えられれば、そうなってしまうのではないかと推察している。
そういうチャンとしたと言うか「正確で、原語に近い発音」を知らないか、できない英語教師の口真似をしたために「インポッシブル」になるか、頑なにローマ字読みに従って「ポッター」のようにしてしまうのだろうと思う。私が忌み嫌っているsecurityだって同様で、辞書さえ見ずに「セキュアラティ」であるものを無理矢理にローマ字式に「セキュリティ」にしてしまったのではないか。原語とは異なる表記をして国内に広めてしまった罪は「万死に値する」と思うが、如何か。
後難を恐れずに言えば「辞書の発音記号通り」にか「native speakerたちのように」発音できない英語教師が、その不正確な発音でスタートアップの児童や生徒に「英語の発音」を教えてしまったので、カタカナ語にして表記したような発音が普遍的になったのではないのか。敢えて言うが、帰国子女たちは現地で生まれ育ったらnative speakerのように発音しているではないか。日本で教えたって、正しく教えるか、繰り返し繰り返して正確な発音を教えれば、できるようになるはずだ。
上記のような論旨を展開すれば「そんな事以外に、もっともっと重要な英文法や単語の知識や英文和訳や英作文のような項目があるのではないか」と反撃されるだろう。私はこの考え方による教え方は「英語学」なのであり、英語という言語に詳しくはなるし、読解力はつくだろうが、大衆が求めたがる実用性には乏しくなってしまうと思っている。そもそも「教える目標」が違うのだから、自由自在に会話できる力は育たないと思う。
これまでに私が何度「音読・暗記・暗唱」と声に出して中学1年の教科書を読むと良いと主張した。私は中学から高校にかけて在学中には、最低でも試験の前には10回は「試験範囲」を声に出して読み、暗唱ができて、何処で文章が切れているかが解るようになり、自然と意味が解るようになるまで音読を続けていた。「この方式で試験は大丈夫だ」と主張してきた。恐らく「では試みてみよう」と思う方は皆無だっただろう。
私は中学から高校を通じて「単語帳」も「単語カード」も作ったことはない。音読して暗記して文章の流れの中で単語の意味を覚えた。その為には、知らないか解らない単語に会えば、その都度に辞書を引いて意味を調べた。その意味を教科書に書き込むような真似はしなかった。書けば忘れるから、覚えておくよう努力した。この勉強法でも大学卒業までの間に英語の試験で90点を切ったことは2回しかなかった。
敢えて強調したいことは「単語はバラバラに覚えるのではなく、文章の流れの中で使い方と意味を覚えておくと良いのだ」なのである。試験に必ずと言って良いほど出てくる「この単語のアクセントが来る場所に印をつけよ」などと言うのは実用性とはかけ離れたことの勉強を押しつけている愚挙だ。音読して流れの中で覚えておけば、自然に何処(どのsyllable)にアクセントが来るか解るのだ。イタリア語には「終わりから二つ目の母音にアクセントが来る」というような原則があるが、英語にも当てはまる例が多い。だからと言って、目で見るだけではなく、音読して覚えてもらいたい。
高校3年の時の英語の担任だった鈴木忠夫先生は「教科書を繰り返して音読して暗記しておけば、間違ったような表現は自然に口から出てこないようになるのだから、音読は大切だ」と言ってくださった。尤も、音読を始めるに当たって正しく綺麗な発音で読んでくれるお手本になる人がいればなお良いのだが、そういう幸運には滅多に恵まれないだろう。そういう人が身の回りにいる人は例外的だろう。でも、「音読・暗記・暗証」はやってみなければ、効果があるかないか解らないだろう。何事もやってみなければ前に進まないのではないか。
英語で話せるようになる為には周囲に会話ができるnative speakerの相手がいなければならない。そういう条件は滅多に整わないだろう。外国人の発音に日頃から耳が慣れていなければ、聞き取れるようには育たない。それにも拘わらず「インポッシブル」だの「セキュリティ」だのと平気で表記しても誰も修正しようとしない環境下では、「外国に行って地元の人に通じる英会話」などできるようになる訳がないのではないか。
一言念を押しておくが、「native speakerだったら、何処の国の何処の地方から連れてきても良い事」とはならないのだ。例えば、アメリカの南部訛りは勧めないと既に指摘したし、Australiaという国には、この綴りを「オーストライリア」と発音する人が多く、現地で普通の挨拶である“Good day, mate.”が「グッタイ。マイト」になっていることも既に解説してあった。英連合王国にはLondon Cockneyと言う訛りがある。我が国でサッカー界の貴公子と呼んだDavid Beckhamは、自分のことを「ダイヴィッド・ベッカム」と言っている。英連合王国系には決して真似しても良くない独特の発音があるのだ。
辞書も引かずに、何が何でもローマ字式に表記するから「ワーキング・ホリデー」のような誤った奇妙なカタカナ語ができてしまうのだ。何度も指摘したが、これは「ハラディ-」が原語に近いのである。またキチンと”w”の発音を教えていないので“working holiday”が「ワーキング・ホリデー」になっているのだ。理屈を言えば「ゥワーキング・ハラディ-」が原語に近いのだ。テレビのアナウンサーたちは”web”が正しく言えないので、みな「エブ」と聞こえるように言っている。テレビ局には「辞書で発音記号を見て指導しろ」と言ってやりたい。
ここまで、発音にだけ焦点を絞って論じてきてしまったが、英語の教え方にはもっともっと多くの面での修正が必要になるだろう。もしも、世間で求めるような実用性を追求しなければならない方向に舵を切るのならば。だが、私は文部科学省も英語教育界も今さら方針転換はできないだろうし、するとは思えないのだ。
結論的に言えば、1990年にテレビで見たパネルデイスカションで「学校でいくら教えられても一行に英語が話せるようにならないのは何故か」という苦情に対して、正直な女性の教師が「我々は最初から英語が話せるようになるように教えていない。あくまでも教科の一つとして生徒たちを5段階で評価するように教えているのだ」と堂々と答えられた。
私も「そういうものだ」と理解し認識している。某大学の外国語学専攻の学部で「そんなに話せるようになりたいのならば、市中に会話学校に行きなさい」と言われたと聞いたことがあった。英語とは「学問」なのであることを忘れないように。