新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

「英語の学び方」を考えて見よう

2023-05-19 08:13:31 | コラム
日本人に英語の能力が何処まで必要か:

誰が言い出して、誰が「国民皆英語会話能力必須」などと強調したのか不明だが、我が国では「国際化とグローバル化の時代に備えて、英語での日常会話くらいの能力を備えていなければならないのではないか。その大目的のためには小学校3年から指導しよう」ということになってきたようである。

私は以前に「我が国ほど自国語であらゆる文献が揃い、あらゆる種類の学問の勉強とその研究が可能である世界に希な国である、であるから万人が高次元の英語力を備え等得るような教育は不要ではないか。英語を主たる言語とする職業を選ぶか、海外に出かけられて英語力が肝要な研究を志す方や、Ivy League等の最高のビジネススクールで学位を取得しようとする学徒が懸命に学べば良いのではないか」と指摘した。

だが、こういう教育法は一向に実施されずに、昨日仏文学者のTK博士が指摘されたような「「日本の英語はどこまでいっても試験英語で、話すとか書くが問題ではなく、試験の点数を上げることが問題ですから。」の域に止まったままである。私もこのK博士の指摘には全く異論がない。

だが、ここで誤解されないように指摘しておくと「私はこのよう英語の教育法を全面的に否定はしていない」のである。それは「この方法が高校における生徒たちに5段階の差をつけて評価するための手段として採用されて学科の一つとされている以上、今さら変えようがない」のであるからだ。

既に取り上げた例にこういうのがあった、それは「高校3年に英語の教科書を読んだアメリカの一流の技術者が叫んだこと」である。彼が言ったことは「日本の学校教育では英文学者でも養成しようというのか。アメリカの高校ではこのような難しい(高次元の)文学作品を教科書に使って国語を教えることはしない。生徒たちは果たしてこれほど我々にも難解な本を理解できるのか」だった。これは教える方がここを目指しているからであり、生徒間の差をつけやすいのだろうと邪推した.

実は、これに対しても私はそれほど強く否定する気にはならないのだ。と言うのは「こういう教育の仕方をする効果は我が国の人たちの(敢えて私というが)読解力は私如きが及ばないほど高い場合が屡々あるからだ。現に、ある大学の英書購読の本を見せられたことがあったが、浅学非才の私にはとても読みこなす力はなかった。何かが違っているのだと知った。即ち、実用性は最初から考慮されていないのだ。

ここで一寸論点を変えてみよう。私は英語を「単語」、「英文解釈」、「英作文」、「文法」、「英会話」のようにバラバラの独立した分野にして教えることには反対なのだ。英語という言語は一つのものであるから、音読と暗記と暗唱を通じて英語全体を総合的に把握してから個別に後から教えれば良いことだと思っているし、自分がそれで充分海外で役に立つ英語力が身についたと思っているから。

そうであるかと理解して頂けた方に提案したいことがある。それは「多くの高校で進学や体育専門のようにコースを分けて教育しているようだから、英語の場合は『学科の一つとして試験中心に学び、その究極の目的のようなTOEICを目指す組』と『海外にでても通用するような高度であり尚且つ実用性も教える組』に分けてしまうこと」だ。

こうすれば、何も必要もない七面倒くさい英語で苦労することがない生徒を育てられるし、専門家乃至は学者候補の養成だって可能になりはしないか。私は「万人に強制する必要などないだろう」と言いたいのだ。但し、「会話」には相当以上の慣れと度胸が必要だから、チャンとした正調で教養のあるアメリカ語の人か、矢張り育ちが良いUKの人を招請して教えるべきだ。そうでないと、無闇に“you know”を挟む人や、トランプ前大統領のように平然とswearwordを乱発する危険性なきにしもあらずだから。

これは如何なる事かと言えば「英会話」の教師を選ぶ側、即ち日本人が「どれが本当に正調のアメリカ語かキングズイングリッシュであり、何処に出しても恥ずかしくない英語だ」と判定できる能力を備えていなければならないと事なのだ。実名は避けるが、某有名私立大学の学長先生の講演の内容は極めて格調が高かったが、悲しいことに“you know”を乱用されていたのだ。だから、教えてもらう人とその階級を選べということ。

“you know”を多用することは、少なくとも「知識階級」ではないとして、静かに差別される材料になるのだ。英語を教えようとする人は「こういうこと」や日常会話で多用される「慣用句」と「口語体」、謝意を表す軽い質問の多発、“Please say hello to Mary, for me.”のように「誰が宜しく」と言っているかを明らかにせねばならない理屈っぽさ」までに気を遣っておくべきなのだ。