新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

5月28日 その2 私が「国際人」を定義すれば

2023-05-28 18:48:03 | コラム
私が考える国際人とは:

「自ら現地において他国の文化と思考体系がどのようになっているかを、身を以て時間をかけてでも体験し、更に自国の文化と比較対照して、その違いを十分に認識出来ていて、尚且つその違いを誰にも解って貰えるように語れる者のこと」
である。

それに加えて、外国語の中でも、少なくとも英語だけででも、自分の考えと物の見方を思うままに語り且つ書いて表現できるだけの能力を備えているのも必須条件であろう。

外国の文化を知るためには、その国の人々とその国の言語で意思の疎通を図れることが必要な条件になると思っている。現在の世界では「英語」が共通語のような役割を果たしているようだと思う。

私は更に諸外国の主たる宗教とその歴史を心得ておくことも、国際人になろうとする者にとっては必要だと思っている。それは、ヨーロッパの諸国を歩いて見れば、そこで出会うのは圧倒的な存在感を示すカトリックとその歴史を示す大きなドーム(=教会)であるからだ。

余談だが、キリスト教信者ではない私は、バチカンのサンピエトロ寺院の中に一歩踏み込んだだけで、その荘厳な雰囲気に圧倒されて、何故か自然に涙が出てきたのには、我ながら驚いていた。同じパック旅行の集団にいたカトリック信者の若き母親と娘さんは、それこそ「涙があふれ出て止まらない状況」だった。

国際人とインバウンドを考えてみた

2023-05-28 07:55:45 | コラム
「国際人とは」を考えて見よう(国際人とどのような人物を指して言うのか):

私は「国際人」と呼んでも良い人たちが、そんじょそこらにいるとは思っていない。大体からして如何なる基準で「国際人」とするのかも解らない。在職中に何人かのアメリカ駐在員の方々が身内の人たちに向かって私を指して、「この方は国際人だから」と紹介されたことがあったが、何のことか良く理解していなかった。

そもそも、私は外国人を有り難がる理由も根拠もないと思っているか。それは「彼らは単に我々と文化も宗教も人種も違うというだけの人たちであるだけで、我々よりも特に何かが優れているという事はない」のだから。異国の人には丁寧に接してあげるのは良いことだが、無闇に「外人さん」などと呼んで敬意を表するまでのことはない、長年外国人の中で共に生活して過ごしてきた経験からも自信を持って言える。

その頃には「国際人とは」等を考えたこともなかったので、褒めていただけたと言うよりも寧ろ何か過大評価されたか、揶揄されたのかと、恥ずかしい思いをした。

そこで、あらためて「国際人とは」を考えてみることにした。1972年8月に17年間育てて頂いた日本の会社を出てからは、年中アメリカに滞在していたし、東南アジアの諸国も回ったし、時にはヨーロッパにも行っていた。即ち、何時の間にか外国にも外国人にも慣れて、何時何処で何処の国の人と会って語り合っても、交渉ごとをしても萎縮することなく、ごく普通に振る舞えるようになっていたのだった。思うに、このような怖気づかない、物慣れた姿勢が「国際化された人」に見えただけではないのか。

そこで、今回は初めて「国際人」の定義とはどのような人を言うのかと検索してみた。すると、Gooには「ベストアンサー」があったので、その冒頭だけを引用すると「世界に目を向ける事が出来る人・可能な人とは、自国の文化や習慣や言語にも造詣(学問芸術技術衣食風俗などに深く通じていること)が深い人だと思います。英語の音楽が好きだから欧米の音楽には詳しいですなんていうのは少しも国際人ではありませんね。」とあった。

「なるほど。これならば少しは自分にも当て嵌まる点もあるか」と感じた。だが、私の場合には一寸違う点があると思っている。それは、これまでに何度も述べたことで「アメリカの会社の一員として懸命に仕事をしてきた」ことなのである。そう言う意味は「単に外国に駐在したとか、外国の大学等に留学して勉強してマスターなりドクターを取られた方々とはかなり異なる海外での経験をしていると」という意味での表現なのだから。

だが、振り返って考えてみれば「私は異文化と異教徒の世界に深い予備知識もないままに『職の安全』(=job security)と家族の為に入って行った」のだった。そこには同じように「会社」とかcompanyとなっている以上、同じようなものだろうとか考えていたのは寧ろ誤りに近かった。 

異文化に慣れて「どうやって周囲に合わせるか」と「何処がどう違うのか」が完全に見えてくるまでに10年近くはかかったと思う。これは「言葉ができれば外国に行っても異なった環境に溶け込める」という問題じゃないことの説明にもなると思う。言葉だけでお互いに理解しきれない異文化があるという意味。

こう言う中々超えきれないというか飛び越えきれない障害物があるのだから、外国に行ってその国の宗教も絡んで生み出している異文化の中に一朝一夕に溶け込んで、仲間には成れるものではないという事。

だからよく自虐的に言うではないか。「外国人のパーティーに呼ばれても、言葉もわからず彼らの会話の輪の中にも入っていけないので、日本人だけが壁際に集まって壁の花となっている」と。

では、この町に来てご覧なさい。モズレムどもが我々日本人のコミュニティに積極的に寄ってきているかと。当然のことで慣れない国に行けば知り合った同士、言葉が通じるものだけが集まってしまうのは必然的な流れなのだ。何も「英語が話せないから」と卑下するとか萎縮する必要なんてないのだ。

問題にしたいことは、そのような国際化されておらず、異文化と異教徒の国から無制限に入国させてしまうのが良策というか賢明かという点なのだ。私はトランプ前大統領が取ったイスラム教国からの入国制限は決して誤りではないと思っている。彼は自国にとって有益ではないし、必要ではない国からの入国を敢然として禁じようとしたのだ。

しかしながら、自国に来て貰いたいような「国際化された教養人や富裕の人たちが自国を離れて外国、例えば我が国で一旗揚げようかと企画することは極めて希であろう。常に指摘してきたことは「ここ百人町/大久保界隈が示すように、各国で必ずしも恵まれた階層に属しているのではない者たちが、機会を求めてやってきてイスラム横町を形成してしまう」ものなのだ。

私は決して政府のインバウンド推進政策を貶しているのではない。財政上と観光業の促進の策だと思うから。だからと言って無制限に何処から誰でも入れて良いことにはならないと思う。自国の法律さえも守れなかったような国際人とは縁もゆかりもない者たちが、ヴィザ切れの後で帰国せずに居座ってしまうのだ。

確かに入国資格の基準を厳しくする手段も取れるだろう。外国人の不動産購入を止める法律がない状態では、中国からのインバウンド様が「日本では家が安いから買いに来た』などと言うのだ。ここから先は、政府が余程性根を据えて「外国人の訪日を歓迎する政策」を慎重に練り上げないと、東京全部が百人町/大久保界隈のようになってしまうかも知れないと、私は一人密かに静かに危惧している。

それほど外国人に甘いと言うよりも「不慣れであり、国際化されていないのだ」と言うこと。

全く、視点が違う話題で終わりにしよう。それはNPBの野球の中継でベンチを見ると、皆が「AKRACING」と書かれた椅子に座っている。何処の会社の製品かと思って検索してみれば、なんと中国製だった。野球とは余り縁があるとは思えない中国が、チャンと野球場の中にまで進出していたのだった。国際化されているじゃないかNPBは。