新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

11月26日 その2 英語とは

2023-11-26 11:11:03 | コラム
独り言:

*英語でも何処の国の言語でも、最初に文法が作ってあって、そこに後から言葉を当てはめていったのではない。それでも、我が国の英語教育では文法に重きを置いて教えようとしているのは何故だろう。文法に拘束されていて、間違ってはいけないという思考の範囲が自由に広がらないと思うのだけど。

*言葉は「一つに纏まっているものなのだ」と思うが、何故「文法」、「単語」、「英文解釈」、「英作文」、「英会話」、「聞き取り」のように分けて教えたがるのだろう。全てを一体として記憶しておく必要があると思うのだけど。部品をバラバラに作っても、一つの形にならないように作っていては、良い製品にならないのだろうが。

*アメリカの笑い話にこういうのがあった。「賢い人がいて、こういうルールでこういう競技をこのような進め方をすれば圧倒的多数の興味を引くだろう、多くの人がやるようになるだろう」と、自信たっぷりで大勢の既存のスポーツの専門家にプリゼンテーションをしたそうだ。意外にも全く受けなくて「そんな七面倒くさいルールと競技の進め方では誰も興味を示さないだろうし、やろうとは思わないだろう」とボツになった。

その競技の名前は“Baseball”だったのだ。

*「これからはこの世界の共通語として、どんどん世界狭しとばかりに広まっていく言語がこれだ」とばかりに小学校から教えられ始めた言葉が「不規則が規則的よりも多く、文法が複雑で、発音の国によってバラバラで、多くの単語を覚えるだけでも面倒で、ちっとも解らなくて困った。嫌いになった」と、何処かで誰かが嘆いていたのがEnglishという言語だったとさ。


“I gift ball police.“が示す問題点

2023-11-26 07:42:24 | コラム
ハッキリ言おう「“I gift ball police.”は憂慮すべき問題だ」と:

掲題の“I gift ball police.”については、昨日には私自身が何に遠慮したのか、それこそ後難を恐れたのか、我ながら論旨が明らかではない情けない言い方をしたものだと反省している。我が国の英語教育に問題があることを如実に示しているではないか。

そこで今回は改めて言おうと思う。あの中学3年生は昨年の今頃に中学3年であったのならば、恐らく小学校3年から英語を教えるという大間違いの教育の犠牲者ではないと思うが、それにしても最悪でも“He gave a ball to a policeman.”くらいは言えて欲しかった。あれでは肝心要の文法も体を為していないではないか。

22年にも及んだアメリカの会社の日本駐在マネージャーとしての仕事で、大袈裟に言えば無数のアメリカ対日本の輸出入の交渉を担当してきた。その場では殆どの場合私が当事者でありながら通訳もしてきた。また日本側の方が自分から英語で交渉されるのも聞いてきた。だが、遺憾ながらハッキリ確認できたのは「我が国の英語教育では、国際的な交渉の場では十分に効果が上がらない水準に止まっている事」だった。

まさか、日本の代表者の方々が“I gift ball police.“の次元にあったと言うのではないが、単語を覚え、文法に縛られ、英作文で間違いを起こさないように気を配るような勉強をしてきた為に「何が言いたいのか。何が議論の中心になる問題か」等を明確に表現できていないことが多かった。アメリカ側を苛つかせることが多かった「なんで議論の中心を外したことばかり言うのか」と。

それに加えて文化の違いから「相手の立場を尊重し、失礼になってはならない」と配慮されるので、動もすると先方の顔を立てようとするか、妥協点を探ろうと試みられる場合が多かった。この先方の立場に気を配った我が国独特の奥ゆかしい議論の進め方は、アメリカ側には「感情論」と解釈されて、交渉は捗々しく進まないことになった場合があった。

このような事態を招いていたことの裏には、幾つかの原因がある。その中で最も気懸かりだったのが「英語による表現力の不足」なのだが、それは上記の“I gift ball police.“になってしまったような、初期というか基本からの英語教育が宜しくないことがあると思うのだ。その点は昨日既に指摘してあった「音読・暗記・暗唱」方式ではなかったことがあると思う。

その他には「日本とアメリカの間に存在する文化と思考体系の違い」を中・高・大学を通じて教えてこなかったことを挙げたいのだ。わかりやすい点を挙げておけば、欧米人の思考体系は二進法である(から妥協しない)、彼らには謙譲の美徳はない(相手の立場に配慮しない)、謝罪の文化は存在しない等々である。これらの対極にあるのが我が国の文化と思えば解りやすくないか。

さらに、敢えて指摘しておくと、単語偏重の教育には欠陥があるという点だ。非常に堅苦しい文語的な単語を使われる場合が多く、かえってアメリカ側には主張されたことの焦点が明確でない事があった。問題の核心を論じるまでに遠回りをするのである。

話を“I gift~.“に戻そう。単語とその言葉の代表的な意味しか覚えないから「渡す」が思い浮かばず「与えている」と見えたのか、それならばgiveにならなければならないにも拘わらず「贈り物」のgiftが出てきたと、私は察している。要するに「その単語が文章の流れの中でどのように使われているか」を教えられてこなかったので、giftになったのではないか。

さらにpoliceは「警察」であり警察官はpolicemanであるとは思いつかなかったのか、そのように分けた単語の記憶の仕方ではなかったのだろう。現在の教え方のように「先に文法を厳格に教えて、英作文の試験をするのならばその枠内に間違いなく収まるように出来れば、それで良い」としているのだろう。このように試験の為の英語を教えたことが、表現力が備わらない原因だと、私は断じている。

昨日は朝日新聞が60%の生徒が零点だったと報じた記事から引用したが、その点だけからしても我が国の試験の為の英語教育の問題点が現れているのではないか。私は1990年に聞いた高校の英語教師が「話せるようになる為に英語を教えていない。1から5までの段階に生徒を採点/評価できるようになる為に教えている」と言い切った状態から33年経っても変わっていないと思うのだ。