新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

韓国政府がGSOMIAを破棄

2019-08-23 07:10:59 | コラム
「愚かなことだ」:

これは22日のPrime Newsの冒頭で佐藤正久外務副大臣が述べたことである。佐藤氏は平常は温和な語り口でこのような言わば感情を剥き出しにしたようなことを言わない政治家だと認識していた。その佐藤氏があそこまでの表現を用いたのは余程ご立腹だったのだろうと推察したし、些か驚きもした。傑作だったのは武貞秀士氏が「これは文在寅大統領のこれまでの反日政策とは整合性がある」と言って反町を慌てさせた。ところが武貞氏は平然として「文在寅大統領の心中を代弁してみただけで、不適切であると見ている」と語られた。

実は,私は今日までの文在寅政権が行ってきた数々の反日と抗日政策を考える時に、GSOMIAだけを尊重して維持する可能性は低いのではないかと密かに危惧していた。私は「恐らくアメリカからも継続を再三勧告されていたことなどが、閣内の左派政治家たちの反抗心にかえって火を付けたのではないか」とすら疑っている。更に言えば文在寅大統領は自分を支持してくれている「国民感情」には逆らうべきではないとの判断も働いたのだろうとも考えている。

正直に告白すれば,私は不勉強にして「GSOMIAとは我が国と韓国の間で軍事と防衛上の機密情報を交換することだろう」くらいにしか考えていなかったので、昨夜のPrime Newsでは元自衛隊幹部の伊藤氏が「お互いに知り得た機密情報を外部に漏らさないこと」だと解説されて非常に勉強になったほど。この破棄が我が国にとアメリカにとってどれほど不都合なことであるとか、金正恩をどれほど喜ばせるか等々については、私がここに述べることではなく専門家にお任せすべきだと思う。

安倍内閣では河野外相が韓国の駐日大使を呼んで猛抗議をされ「貿易管理手続きの変更とGSOMIAは次元が全く異なる問題でそれらを混同するとは」と抗議はされた。だが、政府は今回もそこまでのことで静観するとの姿勢を採るとの報道があった。私は既に憂慮して見せたように「沈黙は素直に受け入れと採られてしまうし、韓国には植民地として統治した悪者の我が国を懲らしめたとの逆宣伝を世界に向けて行わせる機会を与えはしないか」と、ついつい悲観的になってしまうのだ。

「文チャン、何処までやるの」と先日指摘しておいたので、このGSOMIA破棄は「何処まで」の範囲内に入っていたとあらためて認識させられた。兎に角、彼らは我が国からの如何なる呼びかけにも応じていなかったにも拘わらず「日本に対して二度も首脳会談を呼びかけたが無視された」と平然と言い出す国家なのだ。私は「矢張り静観ではなく、適切な時期を見定めて言うべき事を韓国に正面から言い、世界に向けて発信すべきだ」と思っている。その発信こそが外務省の役割であって、韓国の大使を「無礼呼ばわり」することではないと思っている。


日韓外相会談の虚しさ

2019-08-22 08:36:03 | コラム
フェアープレーと正義は勝つと信じていて良いのか:

21日に中国で行われた河野外相と韓国の康外相との会談の報道を見ていて、何ともやりきれない虚しさを感じていた。それは我が国の官庁の組織というか在り方では河野外相は我が国を外務大臣として代表しておられるようだが、輸出管理手続きの変更問題は明らかに経産省と世耕経産の管轄下にあり、戦中の半島からの労務者問題は彼の権限下にはなく、GSOMIAに至っては防衛省の問題だろう。それらに対する何らの決定権もない河野氏は言うなれば各関係省庁の表見代理であり、康外相も半日と抗日に凝り固まった文在寅大統領のご意向のメッセンジャーでしかないからだ。

その二人が40分間話し合っても何らの結論を出せる訳ではないことくらいは、メデイアの連中は解っていたはずだ。だから二人の外務大臣はお国の意向を厳しく伝え合っただけの事しかしないのだと私は見ていた。だが、報道では「平行線」などと皮肉めいたことを伝えるだけで、韓国の姿勢に何らのは批判もしないのは不適切極まる。彼らは一体何処の国の報道機関かと疑う。韓国を真っ向から批判したような記事を載せるのは産経新聞だけで、残るメディアは訪日韓国人が7.6%も減ったと嬉しそうに伝えるだけだ。これを偏向と言わずして何が偏向かな。

私は22年半もの間アメリカ側の一員として対日本の輸出交渉を担当してきた。正直に言えば「外国人、それもアメリカ人の視点で我が国を見てきた」ということだ。これまでに繰り返してこういう経験をして来た者として発言していると強調してきた。正直にそこに何を見て感じてきたかも述べてきた。それが見出しにもある「フェアープレーに徹していて、正義は勝つ(“Justice will prevail.”とまで表現した方もおられた)」という非常に綺麗な姿勢だった。別な見方をすれば「神・仏は我々をご存じである」という信念でもあるかと思っていた。汚い小細工や駆け引きに出遭うことは極めて希だった。

こういう常に公正且つ公平な姿勢で今日まで世界に臨んできた我が国は、今回の韓国が「輸出管理手続きの変更」を問題として反日主義を丸出しにして、国を挙げてと捉えて良いと思わせる姿勢で、我が国に向かって総力で刃向かってきた。しかも彼らは文在寅大統領以下が総力で我が国こそが悪であり、その悪を叩こうと国民に向かって語りかけ扇動しているのだ。その扇動の内容たるや99%は虚偽であり、根拠のない(悲しいかな我が国の一部のメデイア等の)捏造であるし、文在寅大統領の来たるべき選挙に向けた血迷った対策でもある。

私はたった今「韓国は総力で刃向かってきた」と述べたが、最近は文在寅政権に対抗する保守派が勢いを取り戻してきたという希望的に近い報道もあるし、「反日種族主義」という反韓国の本が売れていると言う報道もあって、恰も韓国がその非を反省して反日の姿勢が軟化したかの如き楽観論も出てきた。だが、著者の李栄薫氏は彼らの支持派は10%程度だと認めていたではないか。私は悲観論者だからそれほど時代を楽観視は出来ないと思っている。

私とても少しは楽観視てみたいとは思うが、そうではないと危惧している。専門家の一部では軟化したと見ている韓国の政府が、我が国の食品の放射能汚染を今更採り上げるか、東京オリンピックが放射能汚染で危険だと国会議員が宣伝するか。大韓航空が日本向けを大幅減便するか。

とは言ってきたが、私は矢張り日本国民の一人として「正義は勝つ」を信じたいと思っている。だが、正義には負けそうな相手は総力で牙をむきだしてきている時に、我が国民にはどれほどの危機意識があるのかと疑っている。テレビ局は嬉しそうに韓国からのお客が減って危機を訴えている地方の旅館や飲食店の窮状を採り上げて報じている。韓国の報道機関がこれを見れば「そら見たことか。我が国の正義が悪の日本に勝った」と報じるだろう。私は政府はこういう事態に如何なる対策を講じるかと期待してはいるが。

ここまでの状況にありながら、テレビ局は未だに専門家の方々に「日韓対立問題の落とし所は」などと尋ねてみせる。文在寅大統領が難しい局面に追い込まれているのは確かだろうが、彼はそれでも居丈高に「日本が協調するというなら話し合っても」などと見下したようなことを国民に向かってほざいて見せたではないか。

私は事ここまでに至れば、矢張り政府は韓国とその文在寅大統領に扇動された国民に対して「どれが何処まで虚偽で虚報か」と「国際的な条約を遵守せず国内法を優先するのは誤りである」とハッキリと伝えると同時に,韓国が逆宣伝に努めている諸外国に我が国の正当性を知らしめるべきだ。これこそが外務省の仕事であり、外相が握手をして虚しい会談をしている時ではないと思う。しかも事もあろうに、3ヶ国の外相会談では中国の王毅外相に仲良くせよと諫められたというではないか。

私は国民も総力でとまでは言わないが、少しは現実的にこれまでよりも危機感を持つべきだと思っている。そうでないと「何が2回目」か知らないが、文在寅大統領は我が国に勝とうと言った妄想が現実に少しでも近くなってしまうかと危惧するのだ。それでも、日本製品不買運動をしている国の何とかドッグを食べて、化粧品を買おうとする人たちで新大久保駅前は連日賑わっている。これもフェアープレーの精神の表れか,それとも平和に馴れた危機意識の欠如なのか。


8月21日 その2 甲子園の野球に思ったこと

2019-08-21 15:25:00 | コラム
甲子園では気の毒にも球審が酷暑にやられた:

20日は夏休みで1週間休診中だった掛かりつけのクリニックが診療を開始されたので、朝一番で酷暑の中を歩いて出向いた。国立国際医療研究センター病院の主治医も同じ診断を下されるが、私を常に全身の筋肉痛というか凝りが襲ってくるのは「2006年以来3度も襲われた心筋梗塞と、2015年に2度の緊急入院を余儀なくされた心不全を患った以上、年齢も手伝って仕方ないことだろう」と、クリニックのS医師も言われるのだ。痛み止めの服用も効果はあるが、悪玉コレステロールが余計に蓄積されるので禁止されている。そこで両肩にブロック注射を受けて無事帰宅。

その結果で高校野球の準決勝の開始に間に合って、注射の効果が現れるまで静かに観戦していた。それにしても、高野連も朝日新聞も声なき声か大声か知らないが、この猛酷暑の下で未だ身体能力が十分に出来上がっていない高校生に昼間から良くも野球を3時間以上もやらせるものだと呆れる前に感心している。この日は生徒たちよりも高年齢の球審がやられたようで途中交代の止むなきに至ったのは何ともお気の毒なことだと思って見ていた。高野連や朝日はどう思ったのだろう。それにしても生徒たちや観客からは事故は発生していないのだろうか。報道していないだけか?

私は既に述べたことで高校野球だろうと何だろうと、勝利を目指して一所懸命に試合をしている姿を主に観戦しているのではなく、飽くまでも冷静にその技術の巧拙を鑑賞して楽しんでいるのだ。決して朝日新聞その他のような美辞麗句を弄そうと思って見ている訳ではない。優勝した団体や個人がそこに到達するまでの練習や苦労を思いやって、時には涙しかかることもあるが、彼らが優勝した喜びをテレビを通じて味合わせて貰おうと思って見ているのだ。と言うのも、私たちは昭和23年の国体の高校サッカーで決勝戦で敗れた為に優勝を経験せずに終わったので、その嬉しさが如何ばかりかと想像しているのだ。

こういう言い方は良くないかと後難を恐れて言えば、甲子園の野球のようなトーナメント方式の試合を見ていると、準々決勝や準決勝までの段階に勝ち上がってくる学校になるほど偏差値が高くなってくるような傾向があるのだ。だが、明日の決勝戦でも勝ってしまいそうな勢いの金沢の星稜高校はその例外的な存在であるようだ。私の独断的な見方だと、地方で野球以外の種目で余り全国区ではない私立高校が難関を勝ち上がってくる傾向があるようだ。そういう取り組み方で知名度を上げて少子化の時代の生徒集めの対策としているのかと見ている。間違っていたらご免なさい。

私が長い間忌み嫌っていたことは何も甲子園の野球ではなく、あらゆる競技種目で全国大会をトーナメント方式で開催することだ。その弊害を鋭く衝かれたのが残念ながら故人となってしまわれた元日本大学高校・アメリカンフットボール部監督だった清水之男氏だった。勿論その指導方針は厳しかったが、子供たちの特徴と言うか何が優れているかを見抜く眼力は素晴らしかった。

このフットボール部は全国優勝を狙える実力があったのだが、清水氏は「私は子供たちにトーナメント方式を勝ち上がる為の技巧を教えて小さく纏めるテイームを作ることはしない。子供たちを鍛えるのは飽くまでも日本大学フェニックスの篠竹監督が使うような選手を育てる事を第一義にしていると了解願いたい」親たちを集めて語りかけられたのだった。事実、フェニックスの中心選手たちに日大高校出身が数多く占めていたものだった。

甲子園の野球はこの故清水監督の方針と見事なほど対極をなしていると思う。その点から見れば、現在のサッカーのJリーグに全国大会で名を為した選手がどれほどいるか。全日本代表に高校の全国大会で活躍していた者が何名いるか。多くはJリーグの下部組織で鍛えられた者だ。でもテレビも新聞も全国大会を持て囃すのだ。NPBに甲子園出に出なくても名を為した者がどれほどいるかを考えて見ろとも言いたい。尤も、その陰にはプロのコーチたちの指導力の問題もあるとも言えるだろう。何処かにそれかあらぬかFA選手ばかりを集めている強豪球団があるではないか。

甲子園に話を戻そう。テレビだけで見ていては本当の能力と完成度は解り難いが、星陵高校の奥川恭伸君はあらゆる球をプロの投手のように操るだけではなく、アメリカのMLBの投手たちのように150 km台の速球(ストレートというのは日本語で、アメリかでは fast ball である、念の為)を投げてしまう超高校級どころかプロでも通用するだろうという騒ぎ。中京学院中京高も智弁和歌山を軽く一捻りしたと見えた。両校ともに「打たせて貰える投球」に最後まで出会えなかった。

問題は決勝戦で大阪の履正社が奥川君のどの球種に絞ってくるかだ。準決勝では7回まで投げただけで、今日一日の休養だが、これを以て頑是無い?高校生を丸一日休ませたと見るのか、不合理な酷使と非難するかだ。だだ、少なくとも3年間この日を目指して努力してきた聖地甲子園での決勝戦だ。理屈も理論も超越した試合になるだろう。私は奥川君は大した投手だと思ってはいるが、あの完成度を見ると「彼に後どれほどの伸びしろが残っているのか」が気になるのだ。恐らくあのままプロに行くのだろうが、FA選手ばかりを買い漁る球団にだけは籤を引き当てさせたくない。


香港に思う

2019-08-21 08:25:36 | コラム
あの激しいデモは何時終わるのだろうか:

20日の夜にはTBSの「報道1930」と日テレのBSで「深層ニュース」でこの香港問題を採り上げたので、興味を惹かれて見ていた次第。専門家の方々の意見を総合すれば「何時終わるかの見通しは立てられない」という辺りになるようだった。比較的慎重な意見が集中していたのは、矢張り「中国が示威行為をして見せているような武力による鎮圧があるか」との点だったと思う。私は既に採り上げたように30年前の天安門の例もあり、習近平がそういう挙に出はしないかとハラハラしてきた。だが、専門家のご意見は「それはあるまい」となっていた。

それであらためて,自分自身が香港をどれほど経験しているかを思い出してみた。そういう見方をしていなかったので自分ながら意外だったのは,香港には日本の会社時代に出張で訪れたのを含めて4回しか行っておらず、韓国の5回よりも少なかった事実だった。1970年に生まれて初めて海外に出て4ヶ国目に入ったのが香港だったが、既に高層建築がが建ち並び、当たり前のように英語が通じているが、一歩裏通りに入れば道幅一杯に無数の洗濯物満載の竿が突き出ていて美観を損ねていたのが対照的で面白かった。

その出張中に先に訪れた台湾、フィリピン、シンガポールよりも洗練されていたかと思えば混沌としていた面もあった。輸入商たちの商法の「これが中国と言うべきか東南アジアの商法と言うべきか」俄に判断で出来るような経験がなかったが、その駆け引きの巧みさと抜け目無さには驚かされたものだった。商社の駐在員には「一社に勤務しながら自分の会社を持って両方の顔で商売をしている腕利きの現地人を雇わざるを得ない場合もある」と聞かされたのも忘れられない。要するに華僑たちがしのぎを削っている貿易港の町だと知った次第。

間に71年のパック旅行を挟んで、1987年にはウエアーハウザー・ジャパンの創立20周年記念旅行で香港に出掛けた際には、自由時間中に3人なら危害は加えられないだろうとばかりに偽ブランド品の店にも入ってみたし、ビクトリアピークに夜景を見に上ったバスにはRolexの偽物を売る集団が押し寄せて面白半分に買った者がいた。だが、ホテルに帰った頃には既に動きが怪しくなっていたのも笑えない貴重な?経験だった。私は買っていなかったが。

95年に中国に返還されて「一国二制度」が始まった後に、初めて完全な個人的な旅行を家内と共にした時は、驚くほど街中で英語が通じにくくなっていた。現地の駐在員に尋ねると「中国から移り住んできた者たちが増えた結果だろう」ということだった。それでも未だ治安も安定しており、街中を何の心配もなく歩き回っていた。その後に上海や北京を訪れてみて感じた中国と中国人とは確たることは言えないが、香港の方が遙かに外国慣れしている別世界のように思えた。

その香港であれほどの犯人引渡法案を原因として香港の人たちが、あそこまでのエネルギーと熱意と意欲を示すデモが続くとは唯々感心するのみである。私の関心事は前述のような「中国の危険な出方があるか」はあるが、あれほど自由貿易で繁栄し、東南アジアの中心的な商売の都市であり、多くの観光客を惹き付けてきた香港がデモが続けば、経済的にどうなってしまうのだろうかという点なのである。昨夜もそういう点には議論が及んでいなかったが、中国にしたところで香港の経済が一時的にも停滞すれば悪影響を受けるのではないかと思ってしまう。

香港の行政長官(昔の香港政庁のことかな)は如何にデモ隊が主張しても法案の撤回を言わず、辞任もしないが、彼女は中国の支配下にある以上何れを実行しても自分の身が危うくなると承知しているのだろうから、身動きならないのだろうし、中国の政府が許す訳がないのだろう。昨夜も150~170万人もがデモに参加したというが、中国は10月1日の建国記念日を控え、如何なる手段を講じてこの事態を収束させるかは、トランプ大統領がが中国を牽制し始めたような世界の情勢から考えても、大いなる関心がある。



英語の悩ましさ

2019-08-20 16:18:07 | コラム
英語では発音には品格が求められる:

始めに:

我が国にはアメリカのような明らかなな差別されているとされる少数民族(minorities)もおらず、プーアホワイトなどと呼ばれる階層にも分かれていない。そういう我が国でも家柄、育ち、環境、職業、社会的地位、地方等によって言葉の品格が云々されることがある。しかしながら、アメリカほどの厳しさというか差別化は存在しないと言って誤りではない思っている。だが、我が国には「お里が知れる」という品位を問われるような見方があるのも事実かと思う。今回はその辺りを英語ではどのようになっているかを考察してみようと思う。

私は我が国では「何故官民挙ってあれほど英語が良く出来るように教育するとか、英語で外国人と意思の疎通が図れるようにしたいとしようとするのか」と疑問に感じている。勿論、国際化というかグローバリゼーションの現代にあっては高い英語能力が多くの場面でも止められていいる。戦後間もなくの頃には何とかして英語が使えるようになろうといったような願望というか憧れがあったのは否定できないと思う。それが、あれ以来70有余年を経た今でも、その当時の流れを引きずっているようにも思えてならない。

その戦後間もなくの頃から、我が国では最もアメリカとは安保条約の下で保護され、最も大きな影響を受けていたにも拘わらず、何故か学校教育の英語教育で一般社会の傾向を見ても、あれほどQueen’s Englishを有り難がる風潮があるのは、私は不思議なことだと思っている。だが、進駐軍の(知識階級には属していない)兵士たちの発音という言葉遣いやその上等とは言えない発音を真似るし、追いかけていたことが、未だに残ってしまっているのがなお一層不思議な現象なのだ。

私は「これは決して褒められたことではなく、寧ろ学校教育が責任を持って是正して然るべき事柄だ」と信じている。だが、文科省にも英語の教師の方々にもそういう認識はとんどないようで、英語の先生方には「英語ではどのような英語とその表現が世界の何処に出ても恥ずかしくない言葉遣いであり、何が下品な下層階級の言葉遣いであるかの判断の基準の持ち合わせもないように見える」のは、私の僻目か。

と、ここまで述べてきたので、次はそういうお薦めできない品位に欠ける言葉遣いと発音は如何なるものを指すかの具体例を挙げていこう。動画ではないので、遺憾ながら「これが本来あるべき発音だ」というのをカタカナ書きで表していくことにする。

本当の発音が出来てからにしよう:
ある近年かなり人気が高くなってきた都内の私立大学の英文学の名誉教授が、以前にアメリカに出張されて「ウオラー」という発音を聞かれたのが非常に印象的で「現地ではこういう発音になるのかと、あらためて認識した」と語ったのを聞いたことがあった。遺憾ながら「ウオラー」はアメリカのある程度階層以下では、これがごく普通の発音である。支配階層というか、アッパーミドル以上ではこのように発音する者たちはこういう発音はしないのだ。既にお気づきの方がおられれば結構だが、これは“water”の発音なのである。

私はこういう発音は絶対にお薦めしない。これでは、自ら「私は下層階級です」と名乗ったのと同じであるから。断言しておくが「英語を勉強しようとされる方々には、絶対に真似て欲しくない品格に乏しい発音」で。あるべき形は「ウオーター」のみであって、それ以外はあり得ない。どうしても真似したければ、その前に「ウオーター」が完全に発音できてからに願いたい。でも、「ウオラー」はお薦めできない。

似たような例に「トウエニー」や「サーリー」がある。この類いには日本語で育った我々にとってはが日本語にない“t”の発音である為に苦労されるのだ。これは”twenty”と”thirty”なのである。両方の語尾にある”ty”が難物であるのは良く解る。しかも下層にある連中はそれだけの理由でもなく「トウエニー」や「サーリー」のように言うのだ。ここでもこの方が発音しやすいからと言ってそれを真似ることなく「トウエンテイ―」と「サーティー」のように言えるように努力するのが先決問題である。尤も、ここには”th”が出ているが、これは別途説明してみようと考えている。

先ほどQueen’s Englishを有り難がる傾向があると批判めいたことを述べたが、その極めて卑近な例にアルファベットの”c”の発音がある。これを「シー」とするのはBritish Englishであり、アメリカ語では「スイ」なのである。同様に”z”を「ゼット」乃至は時たま「ゼッド」と言っているのもUKでの読み方で、アメリカ式は「ズイ」となるのをご承知か。最も頼りにしているはずの同盟国の発音をもう少し尊重すべきだし、教える方も両国の違いをキチンと教えておいて欲しい。だから「マジンガーゼット」になってしまったのだと思う。

また”v”を「ブイ」とするのもおかしいのであり。「ヴィー」とすべきだ。こういうアルファベットの読み方は中学1年というか、小学校低学年でどうしても英語を教えたいというのならば、その最初にそこから教えておくべき(是正しておく?)事柄だと思う。

アメリカ人を真似て省略はしないように:

トランプ大統領が屡々お使いになる言い方に”I’m gonna ~.”というのがある。この”gonna”はワードでは許されないようで、自動的に赤線が引かれてしまう。この事実が示すように、そもそもそういう類い(品格に乏しい発音であり省略である)なのである。これは元の形である”I am going to ~.”を正しく覚えて使えるようになってから、偶に応用編とでも心得て使っても良い程度のことだ。ろくに自分の意志を英語で表現できない次元にある人が「大統領が使うのだから良いのだろう」とばかりに使うべきものではない。

同様な発音に”I wanna ~.”がある。これは”I want to ~.”が原型である。即ち、如何に合衆国大統領がお使いになるかといって真似ては貰いたくない言葉遣いだ。学校の先生方は、もしもnative speakerを助教などがこういう言い方をするのを聞かれたら、即刻解雇するか「発音に十分に注意せよ」と窘める勇気が必要だと思っている。「俺はアメリカの支配階層と交流しようとは考えていない」というのなら話が違ってくるが、児童や生徒たちが品位に欠ける英語を覚えないように厳重に注意すべきだ。いや、それこそが英語教師の務めだ。かかる応用編は基本を固めてから、基礎が出来てから偶には使っても良いという程度の言葉遣いだ。

アメリカ語ならではの発音:
“the”という言葉がある。これが次に来る単語の最初の字が母音である時には「デイ」の如くに言えと教えられていると思う。しかしながら、多くのアメリカ人は、仮令知識階級であっても、ほとんどの場合に次に来るのが子音で始まる名詞でも「デイ」と発音し、カタカナ語での「ザ」に当たる発音をしない者が多いのだと思っていて良いと経験に考えている。かく申す私も「デイ」派に属している。尤も、厳格な抑揚の付け方では通常は冠詞(the)にはアクセントは置かないのだから、どっちの発音をしたのかは聞き取りにくくなっているが。

この「舌の先を歯の間に挟む発音は日本語にはないので、教えられる方も児童も生徒も学生も苦労するし、放棄して「ザ」にしているのが普通だと思っている。これは英語の基本的な発音を習い始めの時にその気になってやってみることしかないと思っている。幸運にも私は昭和20年に最初に教えて頂いた先生のお陰で出来るようになった。偉そうに言えば「駄目だと思わずに、繰り返して試みて出来るようになるまでやってみることだ」なのだが。

最も悪い形で普及してしまっていると思うのが、”ar”、”er”、”ir”、”or”、”ur”の”r”が絡んだ発音であると思う。これはQueen’s Englishでは簡単明瞭に全てが「アー」のように聞こえてくる。アメリカ語でも基本的にはそれと変わらない発音をするニューイングランドのような地域もある。だが、”r”を響かせる発音をする傾向がある。この「r響かせ型」が戦後に大流行したのだった。現にシカゴ生まれと聞いたヒラリー・クリントンさんにはこの種の発音をされているのが、私には聞き辛かった。

往年の上智大学の千葉勉教授はこれを「下品である」と一蹴された。だが、巷では流行した。「下品」と決めつけるのはアメリカでも一部の上流の階層であり、アメリカの英語を嫌うUKの視点から見てのことだと考えて置いて良いだろう。私は「日本人にはこういう発音が難しいかどうかの問題を離れて、真似すべきではない」と言う立場を採っている

換言すれば、私はこの“r”を響かせる発音は「やりたければ(真似したければ)なさることを阻止しない。だが、真似しない方が無難であるし、第一に如何なる場に出ても恥ずかしくないように正確で品格がある発音になる保証はない」とだけ申し上げておく。余談になるが、私はこの“r”響かせ型の発音をするのが目立った例としてヒラリー・クリントンさんを挙げたが、その点だけでもこの民主党の大統候補を「品位が乏しい」と嫌っていたのだった。