新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月12日 その2 あれからもう34年か

2019-08-12 13:53:56 | コラム
JAL123便の墜落とシアトルでの交通事故の被害:

朝からテレビであのJALの墜落事故を採り上げて追悼している。あの日の午後は横浜市都筑区池部町の大日本印刷・横浜工場を訪問していた。秘書さんには予め「用事が終わった時刻次第では、池部町から横浜線の中山か鴨居まで延々と歩いてからJRに乗って町田まで行き更に小田急線に乗り換えて当時住んでいた藤沢の湘南台まで帰る方が便利なので直帰にする」と断ってあったので、当時は何処にでもあった公衆電話から連絡し、急用もないと確認出来たので横浜よりは涼しい我が家に向かったのだった。

夕方になってJALの大阪行きの便がおかしくなったというニュースがあった記憶もあるが、まさか墜落するとは予想もできなかったので、久しぶりに早く帰ってこられた時間を楽しんでいた。それがまさかと思ったあの大勢の犠牲者が出た墜落になってしまったのだった。夕方の6時56分だったと、今になってあらためて知らされたような気もするが、その余りの事の重大さと事故の規模の大きさに驚いてか、かなり気が滅入っていて憂鬱な気分になっていたとの記憶もある。

私はその頃は、既に飛行機に乗ってはアメリカとの間を頻繁に往復していたので、飛行機とはかくも危ないものかと考えさせられていた。あらためて犠牲者のご冥福をお祈りしたい。


それから2ヶ月も経たない10月初旬にワシントン州の本社を経てジョージア州アトランタで開催されるFood & Dairy Expoに参加すべく、アメリカに出張していた、まさか我が家の男子として3人目となる交通事故に遭うとは夢にも思わずに。あれから34年も経ってしまった今になって思えば、あの8月12日の何とも言えない暗い雰囲気が、私自身がアメリカで被害者となる前兆だったのかも知れないなどと考えている。

この貰い事故については、これまでに何度も触れたから詳細は省くが、運命の悪戯というか偶然さの恐ろしさを感じざるを得ない。あの日はシアトルの空港に到着された最大の得意先の常務さんと担当課長さんのお二人をそのまま空港の敷地内の我が社のハンガーにご案内して、先ずは自社のヘリコプターで200 km程南の工場にお送りしたのだった。ヘリコプターは帰りまでそこで待ってくれている予定だった。所が、山火事が発生したので急遽消火に向かってしまった由で、代車ではなかった代機の小型のカンパニープレインがローカル空港に来るのでそれを利用する事になった。

滅多に利用する事がない社用機なので大いに珍しかった。そこでシアトル空港内の自社のハンガーに戻って、お客様を直ぐ近くのホテルまで送り届ければ目が回るような1日は終わるはずだった。そのはずだったが、サウスセンターというショッピングセンターの敷地内にあるホテルに曲がるところで、信号がない片側3車線道路を左折した際に、3線目を何も注意せずに疾走してきたMustangにぶつかられてしまったのだった。

後になって、「もしもヘリコプターが山火事の消火に向かわなかったら、あの左折で衝突されて4人乗っていた中で私だけ重症を負わずに済んだのかも知れないのに」などと密かに悔やんでいた。ぶつかられた事などはほんの1秒にもならなかっただろう瞬間の事だった。私の人生は誰も予期しなかった偶然の積み重ねで、「行こうとも、行きたいとも、行けるとも」考えていなかったアメリカの会社に転進してしまった事態は、少なくとも良い運命だったと思っていた。だが、ヘリコプター、山火事、社用機という偶然の積み重ねが、一瞬の事故を呼んだかなという気がしてならない。念の為申し上げておくと、私は自動車の運転の仕方を知らないので、あの時も乗っていただけだ。

ではあっても、運命は私を見捨てていなかったようで、私は半年の苦しくも辛かった治療と静養の期間を経て、対日輸出の現場に復帰させてくれて今日があるのだった。私的な回顧談であった事をお許しを。


外国との交渉では曖昧さを排除して断定的に発言しよう

2019-08-12 08:14:39 | コラム
今回は文化比較論でもあるが:

11日にアメリカエスパー国防長官の「海洋安全保障イニシャティブ」への参加を要請されたことに対して、総理も原田防衛副大臣も「総合的に慎重に検討する」という答え方で対応されていた。この答え方に対して畏メル友の佐藤氏は「曖昧である」との見解を表された。私も全くその通りだと思う。アメリカのような二進法的思考回路の持ち合わせがないわが国の文化では「イエスかノーか」の即答が出来ぬ局面にある時は、このような曖昧な答えが返ってくると経験上も解っている。決して「正式な回答は某日某時刻までお待ち下さい」という、曖昧ではなく断定的である表現も先ず出てこない。

私は1972年にアメリカの会社に転進して、この二進法的思考体系で常に「白か黒か」や「実行するのかしないのか」等々の決断をあっけなく決めつけて、断定的に言う人たちの集合体である世界に入っていたのだった。しかしながら、この頃では相互の文化と思考体系の相違などには全き気付く余裕もないままに、そういう自意識もなく彼らのイエスかノーかをアッサリと決めて断定的に物を言う文化に染まっていたのだった。それは転身後2~3年を経て出会った昔の上司に「良くそこまで断定的に物が言えるものだな」と感心されても、何を言われてるのか全く解らなかった。

今にして思えばなのだが、その頃でも既にアメリカ式の二進法的思考体系に嵌まっていたのだった。それ故に無意識的に我が国とアメリカとの思考体系を表している特徴の一つである「曖昧さ」排除した思考体系に影響され、それに基づいた発言になっていたのだということのようだ。日本人同士では細部まで言わずとも「有無相通ず」で理解し合えるだろう。だが、アメリカ人には事細かに言うべき事柄を全て省略することなく「ここまで言わなくとも解ってくれるだろう」というようなことを期待せずに断定的に主張しないと、先ず言いたいことを理解されることはないだろう。

余程日本のビジネスパーソンたちの曖昧で断定を避けた表現の仕方に慣れているアメリカ人を除けば「日本の交渉相手の人たちたちの交渉は当日の課題の核心(heart of the matterと言ったりsweet spotなどと言う者もいました)の周りをぐるぐる回っているだけで具体性がなく、何時まで経っても何が言いたいか解らない」と苛立つってしまう者もまた多かったのだ。このようなアメリカ人に対しては、日本人社員が余程しっかりとした介添えの任務を果たしてやらないことには「お互いに時間の浪費だった」という結果に終わる危険性が高いのだ。

私はこういう曖昧な姿勢が諸外国には通じないと、もう解っても良い頃ではないかと期待している。あるいは、総理以下既にお解りであっても、敢えて曖昧さで閣内で検討する時間を出そうとお考えかなとも想像している。もしも“We will kick your proposal around among us, comprehensively and prudently.”などと訳して伝えていたのであれば、エスパー新長官は「答えになっていない」と、さぞかしご不満だっただろう。だが、現実にはそういう交渉事を経験していない方々が政治家で事に当たっていたのでは前に進まないだろう。では、河野外相のように英語が話せれば良いかという問題でもないと思うよ。

話は一寸逸れるが11日の朝のフジテレビに櫻井よしこさんと登場された橋下徹氏が「韓国の弁護団が差し押さえた三菱重工等の資産を換金するというのならば、日本国内の韓国の企業の資産を差し押さえると言えば良い。だが、これは法的には無理なことだが」と語っておられた。この発言を例に挙げたのは「これくらいにハッキリと物を言う度胸が国際的な交渉事では必要だろう」と言いたかったからだ。私は実際に経験したから言えるのだが、我が国の顧客との重要な交渉事の場で日本人社員がアメリカ側にに有利な条件を提示する発言をするのは、非常に恐ろしくもあるしストレスフルであれば、度胸を要するものなのだ。でも、言わねばその場にいる意味がないのだ。

在職中には「日本人の私が日本の企業の方と命の遣り取りのような交渉をするのは色々な意味で精神的にも大きな負担である。だが、そうは言っていられない。何しろ、私はそれやり遂げる為に雇われているのであり、それ即ち、彼らが常に言う“I am paid for that.“だから」と気を許していた人には個人的に語っていたのだった。私が失礼を顧みずに不安を表明すれば「これまでに余りにも上品且つ温和しく交渉に当たってこられた外務省の公達に、韓国を相手にそこまで断定的に物事を主張して説得する傍ら、我が国の正当性を諸外国にズバリと訴え出て貰えるだろうか」という点だ。