JAL123便の墜落とシアトルでの交通事故の被害:
朝からテレビであのJALの墜落事故を採り上げて追悼している。あの日の午後は横浜市都筑区池部町の大日本印刷・横浜工場を訪問していた。秘書さんには予め「用事が終わった時刻次第では、池部町から横浜線の中山か鴨居まで延々と歩いてからJRに乗って町田まで行き更に小田急線に乗り換えて当時住んでいた藤沢の湘南台まで帰る方が便利なので直帰にする」と断ってあったので、当時は何処にでもあった公衆電話から連絡し、急用もないと確認出来たので横浜よりは涼しい我が家に向かったのだった。
夕方になってJALの大阪行きの便がおかしくなったというニュースがあった記憶もあるが、まさか墜落するとは予想もできなかったので、久しぶりに早く帰ってこられた時間を楽しんでいた。それがまさかと思ったあの大勢の犠牲者が出た墜落になってしまったのだった。夕方の6時56分だったと、今になってあらためて知らされたような気もするが、その余りの事の重大さと事故の規模の大きさに驚いてか、かなり気が滅入っていて憂鬱な気分になっていたとの記憶もある。
私はその頃は、既に飛行機に乗ってはアメリカとの間を頻繁に往復していたので、飛行機とはかくも危ないものかと考えさせられていた。あらためて犠牲者のご冥福をお祈りしたい。
それから2ヶ月も経たない10月初旬にワシントン州の本社を経てジョージア州アトランタで開催されるFood & Dairy Expoに参加すべく、アメリカに出張していた、まさか我が家の男子として3人目となる交通事故に遭うとは夢にも思わずに。あれから34年も経ってしまった今になって思えば、あの8月12日の何とも言えない暗い雰囲気が、私自身がアメリカで被害者となる前兆だったのかも知れないなどと考えている。
この貰い事故については、これまでに何度も触れたから詳細は省くが、運命の悪戯というか偶然さの恐ろしさを感じざるを得ない。あの日はシアトルの空港に到着された最大の得意先の常務さんと担当課長さんのお二人をそのまま空港の敷地内の我が社のハンガーにご案内して、先ずは自社のヘリコプターで200 km程南の工場にお送りしたのだった。ヘリコプターは帰りまでそこで待ってくれている予定だった。所が、山火事が発生したので急遽消火に向かってしまった由で、代車ではなかった代機の小型のカンパニープレインがローカル空港に来るのでそれを利用する事になった。
滅多に利用する事がない社用機なので大いに珍しかった。そこでシアトル空港内の自社のハンガーに戻って、お客様を直ぐ近くのホテルまで送り届ければ目が回るような1日は終わるはずだった。そのはずだったが、サウスセンターというショッピングセンターの敷地内にあるホテルに曲がるところで、信号がない片側3車線道路を左折した際に、3線目を何も注意せずに疾走してきたMustangにぶつかられてしまったのだった。
後になって、「もしもヘリコプターが山火事の消火に向かわなかったら、あの左折で衝突されて4人乗っていた中で私だけ重症を負わずに済んだのかも知れないのに」などと密かに悔やんでいた。ぶつかられた事などはほんの1秒にもならなかっただろう瞬間の事だった。私の人生は誰も予期しなかった偶然の積み重ねで、「行こうとも、行きたいとも、行けるとも」考えていなかったアメリカの会社に転進してしまった事態は、少なくとも良い運命だったと思っていた。だが、ヘリコプター、山火事、社用機という偶然の積み重ねが、一瞬の事故を呼んだかなという気がしてならない。念の為申し上げておくと、私は自動車の運転の仕方を知らないので、あの時も乗っていただけだ。
ではあっても、運命は私を見捨てていなかったようで、私は半年の苦しくも辛かった治療と静養の期間を経て、対日輸出の現場に復帰させてくれて今日があるのだった。私的な回顧談であった事をお許しを。
朝からテレビであのJALの墜落事故を採り上げて追悼している。あの日の午後は横浜市都筑区池部町の大日本印刷・横浜工場を訪問していた。秘書さんには予め「用事が終わった時刻次第では、池部町から横浜線の中山か鴨居まで延々と歩いてからJRに乗って町田まで行き更に小田急線に乗り換えて当時住んでいた藤沢の湘南台まで帰る方が便利なので直帰にする」と断ってあったので、当時は何処にでもあった公衆電話から連絡し、急用もないと確認出来たので横浜よりは涼しい我が家に向かったのだった。
夕方になってJALの大阪行きの便がおかしくなったというニュースがあった記憶もあるが、まさか墜落するとは予想もできなかったので、久しぶりに早く帰ってこられた時間を楽しんでいた。それがまさかと思ったあの大勢の犠牲者が出た墜落になってしまったのだった。夕方の6時56分だったと、今になってあらためて知らされたような気もするが、その余りの事の重大さと事故の規模の大きさに驚いてか、かなり気が滅入っていて憂鬱な気分になっていたとの記憶もある。
私はその頃は、既に飛行機に乗ってはアメリカとの間を頻繁に往復していたので、飛行機とはかくも危ないものかと考えさせられていた。あらためて犠牲者のご冥福をお祈りしたい。
それから2ヶ月も経たない10月初旬にワシントン州の本社を経てジョージア州アトランタで開催されるFood & Dairy Expoに参加すべく、アメリカに出張していた、まさか我が家の男子として3人目となる交通事故に遭うとは夢にも思わずに。あれから34年も経ってしまった今になって思えば、あの8月12日の何とも言えない暗い雰囲気が、私自身がアメリカで被害者となる前兆だったのかも知れないなどと考えている。
この貰い事故については、これまでに何度も触れたから詳細は省くが、運命の悪戯というか偶然さの恐ろしさを感じざるを得ない。あの日はシアトルの空港に到着された最大の得意先の常務さんと担当課長さんのお二人をそのまま空港の敷地内の我が社のハンガーにご案内して、先ずは自社のヘリコプターで200 km程南の工場にお送りしたのだった。ヘリコプターは帰りまでそこで待ってくれている予定だった。所が、山火事が発生したので急遽消火に向かってしまった由で、代車ではなかった代機の小型のカンパニープレインがローカル空港に来るのでそれを利用する事になった。
滅多に利用する事がない社用機なので大いに珍しかった。そこでシアトル空港内の自社のハンガーに戻って、お客様を直ぐ近くのホテルまで送り届ければ目が回るような1日は終わるはずだった。そのはずだったが、サウスセンターというショッピングセンターの敷地内にあるホテルに曲がるところで、信号がない片側3車線道路を左折した際に、3線目を何も注意せずに疾走してきたMustangにぶつかられてしまったのだった。
後になって、「もしもヘリコプターが山火事の消火に向かわなかったら、あの左折で衝突されて4人乗っていた中で私だけ重症を負わずに済んだのかも知れないのに」などと密かに悔やんでいた。ぶつかられた事などはほんの1秒にもならなかっただろう瞬間の事だった。私の人生は誰も予期しなかった偶然の積み重ねで、「行こうとも、行きたいとも、行けるとも」考えていなかったアメリカの会社に転進してしまった事態は、少なくとも良い運命だったと思っていた。だが、ヘリコプター、山火事、社用機という偶然の積み重ねが、一瞬の事故を呼んだかなという気がしてならない。念の為申し上げておくと、私は自動車の運転の仕方を知らないので、あの時も乗っていただけだ。
ではあっても、運命は私を見捨てていなかったようで、私は半年の苦しくも辛かった治療と静養の期間を経て、対日輸出の現場に復帰させてくれて今日があるのだった。私的な回顧談であった事をお許しを。