結局は慣れと度胸になるが:
英語は総合的に勉強すべきだ:
いきなり否定的なことから入っていくが、私は「英会話」などという独立した勉強の科目などないと信じている。即ち、「会話とは英語で自分の思うところを淀みなく表現出来て誰かと話が出来るようになる為には、英語そのものを基礎から基本的に勉強して理解出来ているかいないかの問題である」のだ。
より具体的に私の持論を展開すれば「英語の勉強の過程で,英文解釈だの、英作文だの、単語だの、文法などとバラバラに教えるか勉強するのではなく、教科書を音読・暗記して、覚えている内容を淀みなく暗唱出来るように総合的に学習して置くべきだと言いたいのである。実際に、私は英文和訳や英作文などという勉強の仕方をしてこなかったし、GHQの秘書の方に教えられた英語のままで考え、流れの中で覚え記憶した言葉の使い方で、英語だけはまともな成績を挙げることが出来ていた。また、高校1年になった頃にはアメリカ人たちと英語で話し合う時に何ら不自由しなかったのだ。
と、ここまで言ってしまえば、それだけで英会話の勉強法を語ったことになってしまったと思う。だが、これだけでは何ら諸賢のご参考にはならないと思うので、もう少し具体的なことを論じていこうと思う。
英会話とは:
一口に英会話などと言うが、私にはこれだけでは何のことを言っているのか不明確だと思えてならない。雑談なのか世間話なのか、何か主題(「テーマ」とも言うがこれはドイツ語で、英語はthemeであり強いてカタカナ書きすれば「スイ―ム」とでもなるか)が決められていて、その範囲内で語り合うのかはハッキリしていないと思う。私は要するに何らかの話題を、知っている限りの表現と単語というか言葉を使って自然に話し合うのが会話だと思っている。会話とは思いがけなかったような広い範囲に話題が展開していくのかなどは事前に分からないのが普通だろう。
世間では英会話など言えば、何かよほど美しい表現や言葉を散りばめねばならないと思う人は多いのではないか。または、如何なる話題にも対応せねばならないと緊張しておられる方がおられるだろう。だが、雑談や世間話ならば中学校(現代では、もしかして小学校のか?)1~2年の教科書に出てくるような易しい言葉(口語的表現か慣用句を構成しているような解りやすい単語)だけで出来るものなのだ。要するに、難しく考えるとか、気取る必要などないということだ。
その為には可能な限りキチンとした教養があるアメリカ人乃至は英語を母国語とする人と会話をする機会を求めることが良い勉強になると思っている。それは「なるほど、こういうことを言う時にはこういう風に表現するのか」と言うお手本に接することが出来るからである。
だが、この方式の難点は「貴方にその外国人が話している英語が果たし程度も高くて真似をする価値があるかないかが容易に判断は難しかろう」ということ。即ち、「無闇矢鱈にnative speakerを有り難がるな」ということだ。解りやすく言えば、一般の方では彼らが「何処の馬の骨か」を判定できるだけの英語力と判断力は備わっていないだろうという意味。
嘗てシアトル支店で最高の英語の使い手という商社マンから聞いた苦労話では「赴任した当初に最も苦しんだことは、アメリカ人が余りにも早く話すように聞こえたし、一つの文章が何処から始まって何処で終わったかというか、何処で切れたのかが全く聞き取れなかったこと」だそうだ。
この何処で切れるのか聞き取れないと言うことは「英語には連結音と“rーlinking”という次に来る単語の頭の母音と連結してしまう発音がある点」が正確に聞き取りにくくしているのだ。簡単な例を挙げれば“There is ~.”は「デアリイズ」のように繋がってしまって「デア・イズ」とはならないのである。
その駐在員はそれだけではなく、話の途中で「済みません、もう一度言って下さい」と言うタイミングが取れなくて、解らないままに半紙が進んでしまったのも悩みの種だったと述懐していた。。
こういう経験談を纏めてみると「学習法としては結局のところ経験を積んでいくしかないのだが、その間にこれと思う表現と言い方を沢山覚えて表現の小引き出しを増やしていくしかない」というような結論になってしまうのだ。
私の幸運:
私はそういう意味では、幸いにもアメリカの大手製造業の会社に入っていたので、品格というか教養があると思う上司か同僚が使う表現を覚えて真似する機会が常にあったのだった。このように native speakerに学ぶのは良い方法なのだが、問題点は「彼らは日本人がどういうことで悩むのか、どういうことが解らなくて苦しんでいるのか」などほとんど解っていないので、痒いところにまで手が届くその点では、私は支配階層のアメリカ人の中にあっては外国人だったので、寧ろ気楽に何でも質問することが出来たし、聞くは一時の恥だと割り切っていた。
Native speakerに無闇に依存しないこと:
その昔に「アメリカ人がゆっくりと我々にも解るように話してくれたので、何とかついて行けた」などと言う人もいたが、私はほとんど嘘だと思っている。彼らにそんな器用なことが出来る訳がないし、彼らが一般の日本人が聞き取れる速度など承知しているとは思えないのだ。故に、私は無闇矢鱈にnative speakerから学ぶことを積極的には勧めないのだ。
後難を恐れずに言えば「ましてや、そのアメリカ人か外国人の教養の程度や出自をどうやって判断するのかも問題だろう。いや、一般の方には解る訳がないと言って誤りではない」と断言する。後難を恐れずに言えば、我が国の学校教育で英語を学ばれた方々にはアメリカの南部やオーストラリアやニュージーランドの訛りなどを聞き分けられる訳がないのだと言いたい。
生きた英語の例:
そこで「もう一度言って下さい」は我が国ではごく普通に“I beg your pardon.”と教えられているようだが、私は何故かこういう言い方を聞いた記憶がない。仲間内では“What’s that?” と簡単に言うか “Excuse me.” の語尾を上げて言えば十分だ。または“What did you say now?” か“I'm sorry.”の”sorry”にアクセントを置いて語尾を上げるかでも通じる。時には“Say that again?”とズバリと来る場合もあるが、ここでは前に“Could you”と付ければ、より丁寧になる。一寸ひねった言い方では、“Would you please rephrase rain check for me?”のように解説を求める言い方をすることもある。
以上、難しい単語など一つも出てきていない点に注目されたい。ここで更に強調しておきたいことは、こういう文例を黙読するだけでは覚えきれないので、何回も音読して覚えてしまおうとする姿勢が必要なのだという点だ。換言すれば、英語の表現を効率良く覚える為には、読んで目から入れようとせずに耳から入れようとことが肝腎なのだ。これこそが私が主張する音読・暗記・暗唱による学習法である。
1970年代前半に、あるカナダ人の青年とどうしても面談してフランス語と英語の日本語への通訳を依頼せねばならないことがあって、知り合いのカナダ大使館の商務官に彼の連絡先を教えていただきたいと電話でお願いした。その時に電話の向こうで聞こえたのが彼が誰かに向かって言った“Do you know his whereabouts?” だった。「彼の所在を知っているか?」をこう言うのかと知った。
更に “Can you get hold of him?” も聞こえた。「彼に連絡がつくかい」はこのように言えば良いのかと学べた。私は既に “Can you reach him? ” は承知していたが、カナダ大使館との電話連絡のお陰で「どのようにして誰々と連絡するか」の表現の引き出しが一つ増えた次第だった。私は会話が上達するかどうかは、こういう場合に「これは使えそうだ」と覚える気があるかないかだと思うのだ。
これらの表現は言わば口語体での会話にはごく普通に出てくるのだが、私の現場での経験では、我が国の学校教育ではここまで踏み込んだ言い方を教えられていないようだと見ていた。実は、この種類の表現を覚えていても、現実にはなかなか使える機会は訪れないだろうと思っている。だから敢えて教えないのかとも考えた。だが、現実の会話ではこのような優しい単語を使った口語体や慣用句での表現の洪水である事が多いのだから英会話が大変なのだ。
結び:
それも、「何時始まって何処で切れるのかサッパリ解らない早さで話されるので“rain check”のような言葉が出てきたところで集中力が切れてしまうようだ。対策はどうすれば良いのか」と尋ねられれば、結局は「習うよりは馴れろ」しかないのではと、突き放したような言い方になるのだが、悪しからず。だからこそ、私は長年英会話とは「習うより慣れろ」であり「慣れと度胸だ」と言ってきたのだ。
英語は総合的に勉強すべきだ:
いきなり否定的なことから入っていくが、私は「英会話」などという独立した勉強の科目などないと信じている。即ち、「会話とは英語で自分の思うところを淀みなく表現出来て誰かと話が出来るようになる為には、英語そのものを基礎から基本的に勉強して理解出来ているかいないかの問題である」のだ。
より具体的に私の持論を展開すれば「英語の勉強の過程で,英文解釈だの、英作文だの、単語だの、文法などとバラバラに教えるか勉強するのではなく、教科書を音読・暗記して、覚えている内容を淀みなく暗唱出来るように総合的に学習して置くべきだと言いたいのである。実際に、私は英文和訳や英作文などという勉強の仕方をしてこなかったし、GHQの秘書の方に教えられた英語のままで考え、流れの中で覚え記憶した言葉の使い方で、英語だけはまともな成績を挙げることが出来ていた。また、高校1年になった頃にはアメリカ人たちと英語で話し合う時に何ら不自由しなかったのだ。
と、ここまで言ってしまえば、それだけで英会話の勉強法を語ったことになってしまったと思う。だが、これだけでは何ら諸賢のご参考にはならないと思うので、もう少し具体的なことを論じていこうと思う。
英会話とは:
一口に英会話などと言うが、私にはこれだけでは何のことを言っているのか不明確だと思えてならない。雑談なのか世間話なのか、何か主題(「テーマ」とも言うがこれはドイツ語で、英語はthemeであり強いてカタカナ書きすれば「スイ―ム」とでもなるか)が決められていて、その範囲内で語り合うのかはハッキリしていないと思う。私は要するに何らかの話題を、知っている限りの表現と単語というか言葉を使って自然に話し合うのが会話だと思っている。会話とは思いがけなかったような広い範囲に話題が展開していくのかなどは事前に分からないのが普通だろう。
世間では英会話など言えば、何かよほど美しい表現や言葉を散りばめねばならないと思う人は多いのではないか。または、如何なる話題にも対応せねばならないと緊張しておられる方がおられるだろう。だが、雑談や世間話ならば中学校(現代では、もしかして小学校のか?)1~2年の教科書に出てくるような易しい言葉(口語的表現か慣用句を構成しているような解りやすい単語)だけで出来るものなのだ。要するに、難しく考えるとか、気取る必要などないということだ。
その為には可能な限りキチンとした教養があるアメリカ人乃至は英語を母国語とする人と会話をする機会を求めることが良い勉強になると思っている。それは「なるほど、こういうことを言う時にはこういう風に表現するのか」と言うお手本に接することが出来るからである。
だが、この方式の難点は「貴方にその外国人が話している英語が果たし程度も高くて真似をする価値があるかないかが容易に判断は難しかろう」ということ。即ち、「無闇矢鱈にnative speakerを有り難がるな」ということだ。解りやすく言えば、一般の方では彼らが「何処の馬の骨か」を判定できるだけの英語力と判断力は備わっていないだろうという意味。
嘗てシアトル支店で最高の英語の使い手という商社マンから聞いた苦労話では「赴任した当初に最も苦しんだことは、アメリカ人が余りにも早く話すように聞こえたし、一つの文章が何処から始まって何処で終わったかというか、何処で切れたのかが全く聞き取れなかったこと」だそうだ。
この何処で切れるのか聞き取れないと言うことは「英語には連結音と“rーlinking”という次に来る単語の頭の母音と連結してしまう発音がある点」が正確に聞き取りにくくしているのだ。簡単な例を挙げれば“There is ~.”は「デアリイズ」のように繋がってしまって「デア・イズ」とはならないのである。
その駐在員はそれだけではなく、話の途中で「済みません、もう一度言って下さい」と言うタイミングが取れなくて、解らないままに半紙が進んでしまったのも悩みの種だったと述懐していた。。
こういう経験談を纏めてみると「学習法としては結局のところ経験を積んでいくしかないのだが、その間にこれと思う表現と言い方を沢山覚えて表現の小引き出しを増やしていくしかない」というような結論になってしまうのだ。
私の幸運:
私はそういう意味では、幸いにもアメリカの大手製造業の会社に入っていたので、品格というか教養があると思う上司か同僚が使う表現を覚えて真似する機会が常にあったのだった。このように native speakerに学ぶのは良い方法なのだが、問題点は「彼らは日本人がどういうことで悩むのか、どういうことが解らなくて苦しんでいるのか」などほとんど解っていないので、痒いところにまで手が届くその点では、私は支配階層のアメリカ人の中にあっては外国人だったので、寧ろ気楽に何でも質問することが出来たし、聞くは一時の恥だと割り切っていた。
Native speakerに無闇に依存しないこと:
その昔に「アメリカ人がゆっくりと我々にも解るように話してくれたので、何とかついて行けた」などと言う人もいたが、私はほとんど嘘だと思っている。彼らにそんな器用なことが出来る訳がないし、彼らが一般の日本人が聞き取れる速度など承知しているとは思えないのだ。故に、私は無闇矢鱈にnative speakerから学ぶことを積極的には勧めないのだ。
後難を恐れずに言えば「ましてや、そのアメリカ人か外国人の教養の程度や出自をどうやって判断するのかも問題だろう。いや、一般の方には解る訳がないと言って誤りではない」と断言する。後難を恐れずに言えば、我が国の学校教育で英語を学ばれた方々にはアメリカの南部やオーストラリアやニュージーランドの訛りなどを聞き分けられる訳がないのだと言いたい。
生きた英語の例:
そこで「もう一度言って下さい」は我が国ではごく普通に“I beg your pardon.”と教えられているようだが、私は何故かこういう言い方を聞いた記憶がない。仲間内では“What’s that?” と簡単に言うか “Excuse me.” の語尾を上げて言えば十分だ。または“What did you say now?” か“I'm sorry.”の”sorry”にアクセントを置いて語尾を上げるかでも通じる。時には“Say that again?”とズバリと来る場合もあるが、ここでは前に“Could you”と付ければ、より丁寧になる。一寸ひねった言い方では、“Would you please rephrase rain check for me?”のように解説を求める言い方をすることもある。
以上、難しい単語など一つも出てきていない点に注目されたい。ここで更に強調しておきたいことは、こういう文例を黙読するだけでは覚えきれないので、何回も音読して覚えてしまおうとする姿勢が必要なのだという点だ。換言すれば、英語の表現を効率良く覚える為には、読んで目から入れようとせずに耳から入れようとことが肝腎なのだ。これこそが私が主張する音読・暗記・暗唱による学習法である。
1970年代前半に、あるカナダ人の青年とどうしても面談してフランス語と英語の日本語への通訳を依頼せねばならないことがあって、知り合いのカナダ大使館の商務官に彼の連絡先を教えていただきたいと電話でお願いした。その時に電話の向こうで聞こえたのが彼が誰かに向かって言った“Do you know his whereabouts?” だった。「彼の所在を知っているか?」をこう言うのかと知った。
更に “Can you get hold of him?” も聞こえた。「彼に連絡がつくかい」はこのように言えば良いのかと学べた。私は既に “Can you reach him? ” は承知していたが、カナダ大使館との電話連絡のお陰で「どのようにして誰々と連絡するか」の表現の引き出しが一つ増えた次第だった。私は会話が上達するかどうかは、こういう場合に「これは使えそうだ」と覚える気があるかないかだと思うのだ。
これらの表現は言わば口語体での会話にはごく普通に出てくるのだが、私の現場での経験では、我が国の学校教育ではここまで踏み込んだ言い方を教えられていないようだと見ていた。実は、この種類の表現を覚えていても、現実にはなかなか使える機会は訪れないだろうと思っている。だから敢えて教えないのかとも考えた。だが、現実の会話ではこのような優しい単語を使った口語体や慣用句での表現の洪水である事が多いのだから英会話が大変なのだ。
結び:
それも、「何時始まって何処で切れるのかサッパリ解らない早さで話されるので“rain check”のような言葉が出てきたところで集中力が切れてしまうようだ。対策はどうすれば良いのか」と尋ねられれば、結局は「習うよりは馴れろ」しかないのではと、突き放したような言い方になるのだが、悪しからず。だからこそ、私は長年英会話とは「習うより慣れろ」であり「慣れと度胸だ」と言ってきたのだ。