新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月30日 その2 私の英会話勉強法:

2019-08-30 15:51:05 | コラム
結局は慣れと度胸になるが:

英語は総合的に勉強すべきだ:

いきなり否定的なことから入っていくが、私は「英会話」などという独立した勉強の科目などないと信じている。即ち、「会話とは英語で自分の思うところを淀みなく表現出来て誰かと話が出来るようになる為には、英語そのものを基礎から基本的に勉強して理解出来ているかいないかの問題である」のだ。

より具体的に私の持論を展開すれば「英語の勉強の過程で,英文解釈だの、英作文だの、単語だの、文法などとバラバラに教えるか勉強するのではなく、教科書を音読・暗記して、覚えている内容を淀みなく暗唱出来るように総合的に学習して置くべきだと言いたいのである。実際に、私は英文和訳や英作文などという勉強の仕方をしてこなかったし、GHQの秘書の方に教えられた英語のままで考え、流れの中で覚え記憶した言葉の使い方で、英語だけはまともな成績を挙げることが出来ていた。また、高校1年になった頃にはアメリカ人たちと英語で話し合う時に何ら不自由しなかったのだ。

と、ここまで言ってしまえば、それだけで英会話の勉強法を語ったことになってしまったと思う。だが、これだけでは何ら諸賢のご参考にはならないと思うので、もう少し具体的なことを論じていこうと思う。

英会話とは:
一口に英会話などと言うが、私にはこれだけでは何のことを言っているのか不明確だと思えてならない。雑談なのか世間話なのか、何か主題(「テーマ」とも言うがこれはドイツ語で、英語はthemeであり強いてカタカナ書きすれば「スイ―ム」とでもなるか)が決められていて、その範囲内で語り合うのかはハッキリしていないと思う。私は要するに何らかの話題を、知っている限りの表現と単語というか言葉を使って自然に話し合うのが会話だと思っている。会話とは思いがけなかったような広い範囲に話題が展開していくのかなどは事前に分からないのが普通だろう。

世間では英会話など言えば、何かよほど美しい表現や言葉を散りばめねばならないと思う人は多いのではないか。または、如何なる話題にも対応せねばならないと緊張しておられる方がおられるだろう。だが、雑談や世間話ならば中学校(現代では、もしかして小学校のか?)1~2年の教科書に出てくるような易しい言葉(口語的表現か慣用句を構成しているような解りやすい単語)だけで出来るものなのだ。要するに、難しく考えるとか、気取る必要などないということだ。

その為には可能な限りキチンとした教養があるアメリカ人乃至は英語を母国語とする人と会話をする機会を求めることが良い勉強になると思っている。それは「なるほど、こういうことを言う時にはこういう風に表現するのか」と言うお手本に接することが出来るからである。

だが、この方式の難点は「貴方にその外国人が話している英語が果たし程度も高くて真似をする価値があるかないかが容易に判断は難しかろう」ということ。即ち、「無闇矢鱈にnative speakerを有り難がるな」ということだ。解りやすく言えば、一般の方では彼らが「何処の馬の骨か」を判定できるだけの英語力と判断力は備わっていないだろうという意味。

嘗てシアトル支店で最高の英語の使い手という商社マンから聞いた苦労話では「赴任した当初に最も苦しんだことは、アメリカ人が余りにも早く話すように聞こえたし、一つの文章が何処から始まって何処で終わったかというか、何処で切れたのかが全く聞き取れなかったこと」だそうだ。

この何処で切れるのか聞き取れないと言うことは「英語には連結音と“rーlinking”という次に来る単語の頭の母音と連結してしまう発音がある点」が正確に聞き取りにくくしているのだ。簡単な例を挙げれば“There is ~.”は「デアリイズ」のように繋がってしまって「デア・イズ」とはならないのである。

その駐在員はそれだけではなく、話の途中で「済みません、もう一度言って下さい」と言うタイミングが取れなくて、解らないままに半紙が進んでしまったのも悩みの種だったと述懐していた。。

こういう経験談を纏めてみると「学習法としては結局のところ経験を積んでいくしかないのだが、その間にこれと思う表現と言い方を沢山覚えて表現の小引き出しを増やしていくしかない」というような結論になってしまうのだ。

私の幸運:
私はそういう意味では、幸いにもアメリカの大手製造業の会社に入っていたので、品格というか教養があると思う上司か同僚が使う表現を覚えて真似する機会が常にあったのだった。このように native speakerに学ぶのは良い方法なのだが、問題点は「彼らは日本人がどういうことで悩むのか、どういうことが解らなくて苦しんでいるのか」などほとんど解っていないので、痒いところにまで手が届くその点では、私は支配階層のアメリカ人の中にあっては外国人だったので、寧ろ気楽に何でも質問することが出来たし、聞くは一時の恥だと割り切っていた。

Native speakerに無闇に依存しないこと:
その昔に「アメリカ人がゆっくりと我々にも解るように話してくれたので、何とかついて行けた」などと言う人もいたが、私はほとんど嘘だと思っている。彼らにそんな器用なことが出来る訳がないし、彼らが一般の日本人が聞き取れる速度など承知しているとは思えないのだ。故に、私は無闇矢鱈にnative speakerから学ぶことを積極的には勧めないのだ。

後難を恐れずに言えば「ましてや、そのアメリカ人か外国人の教養の程度や出自をどうやって判断するのかも問題だろう。いや、一般の方には解る訳がないと言って誤りではない」と断言する。後難を恐れずに言えば、我が国の学校教育で英語を学ばれた方々にはアメリカの南部やオーストラリアやニュージーランドの訛りなどを聞き分けられる訳がないのだと言いたい。

生きた英語の例:
そこで「もう一度言って下さい」は我が国ではごく普通に“I beg your pardon.”と教えられているようだが、私は何故かこういう言い方を聞いた記憶がない。仲間内では“What’s that?” と簡単に言うか “Excuse me.” の語尾を上げて言えば十分だ。または“What did you say now?” か“I'm sorry.”の”sorry”にアクセントを置いて語尾を上げるかでも通じる。時には“Say that again?”とズバリと来る場合もあるが、ここでは前に“Could you”と付ければ、より丁寧になる。一寸ひねった言い方では、“Would you please rephrase rain check for me?”のように解説を求める言い方をすることもある。

以上、難しい単語など一つも出てきていない点に注目されたい。ここで更に強調しておきたいことは、こういう文例を黙読するだけでは覚えきれないので、何回も音読して覚えてしまおうとする姿勢が必要なのだという点だ。換言すれば、英語の表現を効率良く覚える為には、読んで目から入れようとせずに耳から入れようとことが肝腎なのだ。これこそが私が主張する音読・暗記・暗唱による学習法である。

1970年代前半に、あるカナダ人の青年とどうしても面談してフランス語と英語の日本語への通訳を依頼せねばならないことがあって、知り合いのカナダ大使館の商務官に彼の連絡先を教えていただきたいと電話でお願いした。その時に電話の向こうで聞こえたのが彼が誰かに向かって言った“Do you know his whereabouts?” だった。「彼の所在を知っているか?」をこう言うのかと知った。

更に “Can you get hold of him?” も聞こえた。「彼に連絡がつくかい」はこのように言えば良いのかと学べた。私は既に “Can you reach him? ” は承知していたが、カナダ大使館との電話連絡のお陰で「どのようにして誰々と連絡するか」の表現の引き出しが一つ増えた次第だった。私は会話が上達するかどうかは、こういう場合に「これは使えそうだ」と覚える気があるかないかだと思うのだ。

これらの表現は言わば口語体での会話にはごく普通に出てくるのだが、私の現場での経験では、我が国の学校教育ではここまで踏み込んだ言い方を教えられていないようだと見ていた。実は、この種類の表現を覚えていても、現実にはなかなか使える機会は訪れないだろうと思っている。だから敢えて教えないのかとも考えた。だが、現実の会話ではこのような優しい単語を使った口語体や慣用句での表現の洪水である事が多いのだから英会話が大変なのだ。

結び:
それも、「何時始まって何処で切れるのかサッパリ解らない早さで話されるので“rain check”のような言葉が出てきたところで集中力が切れてしまうようだ。対策はどうすれば良いのか」と尋ねられれば、結局は「習うよりは馴れろ」しかないのではと、突き放したような言い方になるのだが、悪しからず。だからこそ、私は長年英会話とは「習うより慣れろ」であり「慣れと度胸だ」と言ってきたのだ。


文在寅大統領は何がしたいのだろう

2019-08-30 08:29:44 | コラム
韓国は最終的な目標を何処に設定しているのだろう:

私はつい先頃文在寅大統領をやり口を見て、往年の萩本欽一の番組の題名だった「欽どこ」をもじって、「文チャンの何処までやるの」と揶揄したのだった。29日には光復節の「トーンダウンした」とマスコミが形容した演説とは180度転換して得意技である我が国を貶める内容の談話を発表している。彼らというか文大統領はこれまでの数々の国際法違反や条約違反に加えて次なる貶める為の手法として福島の食品の放射能汚染を持ち出し方かと思えば、パラリンピックのメダルのデザインは彼らが常に批判の標的にしてきた旭日旗を想起させて怪しからんと来た。

相変わらず貿易管理手続きの変更を半島からの労務者の判決に対する報復だと言い募るのにはもう馴れたが、今度はGSOMIAはその手続きを撤回すれば再考してやると言わんばかりの出方をしてきた。しかもそれに飽き足らず「アメリカがこの件に介入するのは余計なお世話だ」と言わんばかりに,本当は安全保障上もDPRKよりも遙かに重要な同盟国であるアメリカに向かっても反抗の姿勢を見せ始めた。文大統領が色々な意味で苦境に立たされているくらいは私にでも解るが、我が国をここまで敵視した上でアメリカにも逆らう先に、彼は何を目指しているのだろうかは解らない。

専門家の方々のご意見やマスコミ報道によれば、支持率も低下気味なところに後継者にと目論んでいた法相に指名した曽国氏の親族等に対する不品行が暴かれて検察の捜索が入ってしまったのでは,歴代の大統領の最後の切り札だった「反日、抗日、日本を陥れ蔑む」カードを切ってきたのは「あー、矢張りその手で来たか」と思わせてくれるのに十分である。見方にもよるだろうが文大統領は相当以上に手詰まりの局面に立たされているようだと読める。この状況では外務省の金杉局長が訪韓して談じ込んでも事態は一歩も動くまいと思う。

私は文大統領と韓国の進歩派が我が国を貶めようと企んで打ってきた手の中には,政府が本気になって対抗手段か救済の手を打たねばならない案件があると思っている。それは北九州に韓国からの旅行者が来なくなったことによる地元経済の苦境である。それでなくとも不振に悩んでいる地方の経済に、今度は大豪雨が襲ってきて家屋の喪失や交通手段の壊滅等の大損害と事故が大規模で生じているのだ。雨は未だに降り止まぬ様子で被害は拡大しそうだ。この事態は何とか言うボランティアの方が1人で向いて解決出来るものではない。私は政府の緊急の対応が必要だと思っている。

そこで、文在寅大統領がどこまでやる気なのだが、まさか彼は我が国をあらゆる手法で攻め立てて「悪う御座いました。前非を悔いて貴国のお言葉に従って全てを元に戻しますからお許しを」とでも言わせる気ではあるまいと思う。だが、アメリカを含めた3ヶ国の同盟関係をぶち壊すようなことをして、その先に何があるのかを考えているのだろうかと疑いたくなる。彼が本気でDPRKと統合すれば我が国をも凌駕する経済大国、それも核兵器を持った大国にのし上がってアメリカの支援も保護も不要になれるととでも夢見ているのだろうか。

GSOMIAを破棄して金正恩委員長を喜ばせ、中国とロシアに極東における覇権のチャンス到来と思い込ませ、その一角に滑り込もうとでも計画しているのだろうか。それならそれで結構だが、危機に瀕しかかっている自国の経済はどうする気なのだろうか。YM氏がいみじくも指摘したように、アメリカは既にGAFAが代表するように物造りからソフトの経済に転換してしまっている。韓国が半導体を造るといっても、その形態では所詮はアメリカのソフト産業の下請けになっただけだ。文大統領の眼力はそこまでに及んでいるのだろうか。その親会社のアメリカを敵に回しかねない反アメリか的な言動はプラスになると思っているのだろうか。

文在寅大統領ばかりを批判してきたが、この韓国の動きを見る時に我が国がどのように対応して不条理に暴れ回る文在寅大統領と韓国を何時の日か制圧して、正常な日本対韓国の関係に持ち込んで東アジアを安定させねばならないのだ。安倍内閣には何時までも「静かな無視」を続けるだけではなく「物言う正当で理詰めの対抗策」に打って出て頂くことを期待して終わる。兎に角「正義は我が方にある」のだから。