新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

英語の悩ましさ

2019-08-20 16:18:07 | コラム
英語では発音には品格が求められる:

始めに:

我が国にはアメリカのような明らかなな差別されているとされる少数民族(minorities)もおらず、プーアホワイトなどと呼ばれる階層にも分かれていない。そういう我が国でも家柄、育ち、環境、職業、社会的地位、地方等によって言葉の品格が云々されることがある。しかしながら、アメリカほどの厳しさというか差別化は存在しないと言って誤りではない思っている。だが、我が国には「お里が知れる」という品位を問われるような見方があるのも事実かと思う。今回はその辺りを英語ではどのようになっているかを考察してみようと思う。

私は我が国では「何故官民挙ってあれほど英語が良く出来るように教育するとか、英語で外国人と意思の疎通が図れるようにしたいとしようとするのか」と疑問に感じている。勿論、国際化というかグローバリゼーションの現代にあっては高い英語能力が多くの場面でも止められていいる。戦後間もなくの頃には何とかして英語が使えるようになろうといったような願望というか憧れがあったのは否定できないと思う。それが、あれ以来70有余年を経た今でも、その当時の流れを引きずっているようにも思えてならない。

その戦後間もなくの頃から、我が国では最もアメリカとは安保条約の下で保護され、最も大きな影響を受けていたにも拘わらず、何故か学校教育の英語教育で一般社会の傾向を見ても、あれほどQueen’s Englishを有り難がる風潮があるのは、私は不思議なことだと思っている。だが、進駐軍の(知識階級には属していない)兵士たちの発音という言葉遣いやその上等とは言えない発音を真似るし、追いかけていたことが、未だに残ってしまっているのがなお一層不思議な現象なのだ。

私は「これは決して褒められたことではなく、寧ろ学校教育が責任を持って是正して然るべき事柄だ」と信じている。だが、文科省にも英語の教師の方々にもそういう認識はとんどないようで、英語の先生方には「英語ではどのような英語とその表現が世界の何処に出ても恥ずかしくない言葉遣いであり、何が下品な下層階級の言葉遣いであるかの判断の基準の持ち合わせもないように見える」のは、私の僻目か。

と、ここまで述べてきたので、次はそういうお薦めできない品位に欠ける言葉遣いと発音は如何なるものを指すかの具体例を挙げていこう。動画ではないので、遺憾ながら「これが本来あるべき発音だ」というのをカタカナ書きで表していくことにする。

本当の発音が出来てからにしよう:
ある近年かなり人気が高くなってきた都内の私立大学の英文学の名誉教授が、以前にアメリカに出張されて「ウオラー」という発音を聞かれたのが非常に印象的で「現地ではこういう発音になるのかと、あらためて認識した」と語ったのを聞いたことがあった。遺憾ながら「ウオラー」はアメリカのある程度階層以下では、これがごく普通の発音である。支配階層というか、アッパーミドル以上ではこのように発音する者たちはこういう発音はしないのだ。既にお気づきの方がおられれば結構だが、これは“water”の発音なのである。

私はこういう発音は絶対にお薦めしない。これでは、自ら「私は下層階級です」と名乗ったのと同じであるから。断言しておくが「英語を勉強しようとされる方々には、絶対に真似て欲しくない品格に乏しい発音」で。あるべき形は「ウオーター」のみであって、それ以外はあり得ない。どうしても真似したければ、その前に「ウオーター」が完全に発音できてからに願いたい。でも、「ウオラー」はお薦めできない。

似たような例に「トウエニー」や「サーリー」がある。この類いには日本語で育った我々にとってはが日本語にない“t”の発音である為に苦労されるのだ。これは”twenty”と”thirty”なのである。両方の語尾にある”ty”が難物であるのは良く解る。しかも下層にある連中はそれだけの理由でもなく「トウエニー」や「サーリー」のように言うのだ。ここでもこの方が発音しやすいからと言ってそれを真似ることなく「トウエンテイ―」と「サーティー」のように言えるように努力するのが先決問題である。尤も、ここには”th”が出ているが、これは別途説明してみようと考えている。

先ほどQueen’s Englishを有り難がる傾向があると批判めいたことを述べたが、その極めて卑近な例にアルファベットの”c”の発音がある。これを「シー」とするのはBritish Englishであり、アメリカ語では「スイ」なのである。同様に”z”を「ゼット」乃至は時たま「ゼッド」と言っているのもUKでの読み方で、アメリカ式は「ズイ」となるのをご承知か。最も頼りにしているはずの同盟国の発音をもう少し尊重すべきだし、教える方も両国の違いをキチンと教えておいて欲しい。だから「マジンガーゼット」になってしまったのだと思う。

また”v”を「ブイ」とするのもおかしいのであり。「ヴィー」とすべきだ。こういうアルファベットの読み方は中学1年というか、小学校低学年でどうしても英語を教えたいというのならば、その最初にそこから教えておくべき(是正しておく?)事柄だと思う。

アメリカ人を真似て省略はしないように:

トランプ大統領が屡々お使いになる言い方に”I’m gonna ~.”というのがある。この”gonna”はワードでは許されないようで、自動的に赤線が引かれてしまう。この事実が示すように、そもそもそういう類い(品格に乏しい発音であり省略である)なのである。これは元の形である”I am going to ~.”を正しく覚えて使えるようになってから、偶に応用編とでも心得て使っても良い程度のことだ。ろくに自分の意志を英語で表現できない次元にある人が「大統領が使うのだから良いのだろう」とばかりに使うべきものではない。

同様な発音に”I wanna ~.”がある。これは”I want to ~.”が原型である。即ち、如何に合衆国大統領がお使いになるかといって真似ては貰いたくない言葉遣いだ。学校の先生方は、もしもnative speakerを助教などがこういう言い方をするのを聞かれたら、即刻解雇するか「発音に十分に注意せよ」と窘める勇気が必要だと思っている。「俺はアメリカの支配階層と交流しようとは考えていない」というのなら話が違ってくるが、児童や生徒たちが品位に欠ける英語を覚えないように厳重に注意すべきだ。いや、それこそが英語教師の務めだ。かかる応用編は基本を固めてから、基礎が出来てから偶には使っても良いという程度の言葉遣いだ。

アメリカ語ならではの発音:
“the”という言葉がある。これが次に来る単語の最初の字が母音である時には「デイ」の如くに言えと教えられていると思う。しかしながら、多くのアメリカ人は、仮令知識階級であっても、ほとんどの場合に次に来るのが子音で始まる名詞でも「デイ」と発音し、カタカナ語での「ザ」に当たる発音をしない者が多いのだと思っていて良いと経験に考えている。かく申す私も「デイ」派に属している。尤も、厳格な抑揚の付け方では通常は冠詞(the)にはアクセントは置かないのだから、どっちの発音をしたのかは聞き取りにくくなっているが。

この「舌の先を歯の間に挟む発音は日本語にはないので、教えられる方も児童も生徒も学生も苦労するし、放棄して「ザ」にしているのが普通だと思っている。これは英語の基本的な発音を習い始めの時にその気になってやってみることしかないと思っている。幸運にも私は昭和20年に最初に教えて頂いた先生のお陰で出来るようになった。偉そうに言えば「駄目だと思わずに、繰り返して試みて出来るようになるまでやってみることだ」なのだが。

最も悪い形で普及してしまっていると思うのが、”ar”、”er”、”ir”、”or”、”ur”の”r”が絡んだ発音であると思う。これはQueen’s Englishでは簡単明瞭に全てが「アー」のように聞こえてくる。アメリカ語でも基本的にはそれと変わらない発音をするニューイングランドのような地域もある。だが、”r”を響かせる発音をする傾向がある。この「r響かせ型」が戦後に大流行したのだった。現にシカゴ生まれと聞いたヒラリー・クリントンさんにはこの種の発音をされているのが、私には聞き辛かった。

往年の上智大学の千葉勉教授はこれを「下品である」と一蹴された。だが、巷では流行した。「下品」と決めつけるのはアメリカでも一部の上流の階層であり、アメリカの英語を嫌うUKの視点から見てのことだと考えて置いて良いだろう。私は「日本人にはこういう発音が難しいかどうかの問題を離れて、真似すべきではない」と言う立場を採っている

換言すれば、私はこの“r”を響かせる発音は「やりたければ(真似したければ)なさることを阻止しない。だが、真似しない方が無難であるし、第一に如何なる場に出ても恥ずかしくないように正確で品格がある発音になる保証はない」とだけ申し上げておく。余談になるが、私はこの“r”響かせ型の発音をするのが目立った例としてヒラリー・クリントンさんを挙げたが、その点だけでもこの民主党の大統候補を「品位が乏しい」と嫌っていたのだった。