気が付けば甲子園の野球が始まっていた:
止めてしまえば良いのに:
甲子園野球を止めよう:
確か37年前に、私はある大学の運動部の親の会合で雑談の中で初めて「甲子園の野球は止めてしまう方が良い」と発言した時には全く受けなかったし、ほぼ全員に「何を言い出すのか」という顔をされた。当然の反応だと思った。私はその頃既に「あの全国大会はトーナメント方式の試合を勝ち抜く為の基本技を鍛え上げるよりも、枝葉末節と言っても良いような技巧を教えることにかまけているので好ましいものではないし、体力が十分に備わっていない子供たちの将来すらも危うくしかねない」と負の評価をしていた。
高校の段階でやっている野球は自己犠牲を尊ぶ「1回の表でノーアウトで走者一塁となるとバントする」というトーナメントを勝ち上がる為の手法であり、野球本来の「投手は力一杯投げて、打者はそれに負けずに力一杯打ち返す」という面白さを放棄してしまう、チマチマした競技にしてしまうのだ。しかも、我が国では恰も高校野球が頂点にあるかの如くにシステムが出来上がっているので、プロでも同様な試合運びになっているのだ。私には興味半減以下となっているので詰まらないのだ。
こういうことをしているだけではなく、戦前の中等学校野球の頃とは違って全国で4,000校(それを切ったとか)もが高野連に加盟している現在でも、何が原因でこれほど酷暑になったかを顧みないのだ。その時期にあの暑すぎる兵庫県に高校生を集めて昼間から野球をやらせて、どんなに否定的な議論が巻き起ころうと意に介せず、体が出来ていない子供に100球を超えて投げさせ、平気で何連投もさせるのが高野連であり、それと組んでいる朝日新聞なのだから堪らない。投球数の制限は当然であり、現在のような気性条件下で何十試合もやらせるのは全く理不尽である。
この点は言い出せばキリがないのでこの辺で打ち止めにしたいが、西武ライオンズには今井達也と高橋光成と2人の甲子園優勝投手がいる。彼らはプロになってから2年も3年も経った今でも、ものになっていないのは何故だろう。これまでに何人の甲子園優勝投手や出場経験者でプロで伸びきれずに落後していった者がいただろう。また、甲子園に出た事がなくて成功した者の方が多いように見せるのは何故だろう。広島の中心選手に甲子園活躍組が何名いるだろうか。
朝日新聞にはこの大会を賄える財力が残っているのか:
この主催者は新聞の購読者数が激減する前から出場校の選手の人数を18名に限定するなど、野球の試合運びの内容も質も変わっている時代に投手が連投せざるを得ないような人数に据え置いている。何を考えているのかということ。私は何年も前に「地方予選から少なくとも25名まで増枠して投手には連投を許さないのはいうまでもなく、球数制限も課して少なくとも5人は用意させるべきだ」と言ってきた。「それだけの人数が揃わない学校は出場を諦めるか、2乃至3校が合併して出場すれば良い」と唱えたのだった。その頃は現在のように酷暑ではなかったが。
問題は準々決勝や準決勝や決勝戦の間に休日を設けるような小手先では解決出来ない事態になっていると、高野連も朝日も認識出来ていない点だ。それに「朝日新聞潰すべし」との非難の声が上がっており収益の更なる悪化を予測させるこの新聞に、ベンチに入れる高校生の数を増やす負担が出来るのかという疑問がある。簡単に言えば、彼らの時代感覚の欠如である。
応援の在り方がイヤだ:
私は野球でもサッカーでもフットボールでも喧しい応援を見させられる為に見に行った事はない。とは言っても、それぞれの観客がご贔屓のテイームを応援される事までは否定しない。だが、笛や太鼓で五月蠅く騒ぎ立てるのは願い下げにしたいのだ。と言うのは、私は純粋に選手たちの鍛え上げられていようといまいと技術と言うか巧拙を鑑賞したくて観戦するのであって、応援を楽しみにしてはいないのだ。それは自分の学校の選手たちを奮い立たせたいだろうが、それならばもっと静かに統制を取って声援だけしていれば十分ではないのかといいたくなってしまう。
特にイヤ何は愛社精神か何か知らないが、都市対抗野球の取引先にまで応援を依頼する姿勢である。それだけではなく「何故大学や高校の応援指導部の真似をした応援を社会人までがするのか」と、言うなれば炎上を覚悟で批判したいのだ。またかと言われても「アメリカにはあのような風俗・習慣はないよ」と言いたくなる。だが、圧倒的にホームテイームを応援する傾向は濃厚だ。人品骨柄卑しからざる紳士も淑女も立ち上がって、“Kill ‘em!”(乱暴に訳せば「奴らを殺せ」だが)とやってはいるが。
NHKの中継放送:
「そうか。甲子園の野球をやっていたな」と気が付いてチャンネルを合わせた。彼らは高野連に言い含められたのか自発的なのか知る由もないが、毒にも薬にもならない穏健な解説者を呼んできて批判的な事は一切言わずに、事細かにラジオ時代の中継放送のままにアナウンサーは試合の進行を描写してくれる。アメリカのように「画面を見ていれば何も言わずとも解るだろう」というようなブッキラボーなことはしない。その代わりに投球数が100や150球を超えても何ら非難めいた事は言わない。偉いものだと思う。
大船渡高の佐々木投手:
私はあの国保監督の県の決勝戦に投げさせなかった方針と言うか判断は正しく善であったと思っている。野球の世界にいる人たちにとっては甲子園は聖地でありあそこに出る事は何物にも代えがたいのだという主義主張は解らないでもない。だが、誰が言ったか記憶もないが「(大学までを含めて)ある協競技に熱中していられる時期と期間などは限定されている。その時期が終わった後の人生の方がはるかに長いのだ。その長期間を危うくしてしまうまでの犠牲を払ってまでやる事か」という見方がある。「いや、それは承知でリスクを冒すのだ」と言われれば「どうぞ、ご随意に」と言うしかない。そういう価値判断が出来ない生徒たちに(無理に)強いるのが正しいことなのかという疑問がある。
「何。プロや大学に行っても潰されることだってあるじゃないか」と言うのか。私の個人的な見方では佐々木朗希君(こんな名前だったか)の体は未だ出来上がっていないようだった。以前にも採り上げた話題でサニブラウン・ハキームはとレーニングの手法が優れているフロリダ大学に行って伸びたし、錦織圭はアメリカのIMGアカデミーで鍛えられた。佐々木君もこういう科学的且つ合理的な教え方をするところで体を作ることを優先すべきではないのか、もしもプロになりたいのであれば。
止めてしまえば良いのに:
甲子園野球を止めよう:
確か37年前に、私はある大学の運動部の親の会合で雑談の中で初めて「甲子園の野球は止めてしまう方が良い」と発言した時には全く受けなかったし、ほぼ全員に「何を言い出すのか」という顔をされた。当然の反応だと思った。私はその頃既に「あの全国大会はトーナメント方式の試合を勝ち抜く為の基本技を鍛え上げるよりも、枝葉末節と言っても良いような技巧を教えることにかまけているので好ましいものではないし、体力が十分に備わっていない子供たちの将来すらも危うくしかねない」と負の評価をしていた。
高校の段階でやっている野球は自己犠牲を尊ぶ「1回の表でノーアウトで走者一塁となるとバントする」というトーナメントを勝ち上がる為の手法であり、野球本来の「投手は力一杯投げて、打者はそれに負けずに力一杯打ち返す」という面白さを放棄してしまう、チマチマした競技にしてしまうのだ。しかも、我が国では恰も高校野球が頂点にあるかの如くにシステムが出来上がっているので、プロでも同様な試合運びになっているのだ。私には興味半減以下となっているので詰まらないのだ。
こういうことをしているだけではなく、戦前の中等学校野球の頃とは違って全国で4,000校(それを切ったとか)もが高野連に加盟している現在でも、何が原因でこれほど酷暑になったかを顧みないのだ。その時期にあの暑すぎる兵庫県に高校生を集めて昼間から野球をやらせて、どんなに否定的な議論が巻き起ころうと意に介せず、体が出来ていない子供に100球を超えて投げさせ、平気で何連投もさせるのが高野連であり、それと組んでいる朝日新聞なのだから堪らない。投球数の制限は当然であり、現在のような気性条件下で何十試合もやらせるのは全く理不尽である。
この点は言い出せばキリがないのでこの辺で打ち止めにしたいが、西武ライオンズには今井達也と高橋光成と2人の甲子園優勝投手がいる。彼らはプロになってから2年も3年も経った今でも、ものになっていないのは何故だろう。これまでに何人の甲子園優勝投手や出場経験者でプロで伸びきれずに落後していった者がいただろう。また、甲子園に出た事がなくて成功した者の方が多いように見せるのは何故だろう。広島の中心選手に甲子園活躍組が何名いるだろうか。
朝日新聞にはこの大会を賄える財力が残っているのか:
この主催者は新聞の購読者数が激減する前から出場校の選手の人数を18名に限定するなど、野球の試合運びの内容も質も変わっている時代に投手が連投せざるを得ないような人数に据え置いている。何を考えているのかということ。私は何年も前に「地方予選から少なくとも25名まで増枠して投手には連投を許さないのはいうまでもなく、球数制限も課して少なくとも5人は用意させるべきだ」と言ってきた。「それだけの人数が揃わない学校は出場を諦めるか、2乃至3校が合併して出場すれば良い」と唱えたのだった。その頃は現在のように酷暑ではなかったが。
問題は準々決勝や準決勝や決勝戦の間に休日を設けるような小手先では解決出来ない事態になっていると、高野連も朝日も認識出来ていない点だ。それに「朝日新聞潰すべし」との非難の声が上がっており収益の更なる悪化を予測させるこの新聞に、ベンチに入れる高校生の数を増やす負担が出来るのかという疑問がある。簡単に言えば、彼らの時代感覚の欠如である。
応援の在り方がイヤだ:
私は野球でもサッカーでもフットボールでも喧しい応援を見させられる為に見に行った事はない。とは言っても、それぞれの観客がご贔屓のテイームを応援される事までは否定しない。だが、笛や太鼓で五月蠅く騒ぎ立てるのは願い下げにしたいのだ。と言うのは、私は純粋に選手たちの鍛え上げられていようといまいと技術と言うか巧拙を鑑賞したくて観戦するのであって、応援を楽しみにしてはいないのだ。それは自分の学校の選手たちを奮い立たせたいだろうが、それならばもっと静かに統制を取って声援だけしていれば十分ではないのかといいたくなってしまう。
特にイヤ何は愛社精神か何か知らないが、都市対抗野球の取引先にまで応援を依頼する姿勢である。それだけではなく「何故大学や高校の応援指導部の真似をした応援を社会人までがするのか」と、言うなれば炎上を覚悟で批判したいのだ。またかと言われても「アメリカにはあのような風俗・習慣はないよ」と言いたくなる。だが、圧倒的にホームテイームを応援する傾向は濃厚だ。人品骨柄卑しからざる紳士も淑女も立ち上がって、“Kill ‘em!”(乱暴に訳せば「奴らを殺せ」だが)とやってはいるが。
NHKの中継放送:
「そうか。甲子園の野球をやっていたな」と気が付いてチャンネルを合わせた。彼らは高野連に言い含められたのか自発的なのか知る由もないが、毒にも薬にもならない穏健な解説者を呼んできて批判的な事は一切言わずに、事細かにラジオ時代の中継放送のままにアナウンサーは試合の進行を描写してくれる。アメリカのように「画面を見ていれば何も言わずとも解るだろう」というようなブッキラボーなことはしない。その代わりに投球数が100や150球を超えても何ら非難めいた事は言わない。偉いものだと思う。
大船渡高の佐々木投手:
私はあの国保監督の県の決勝戦に投げさせなかった方針と言うか判断は正しく善であったと思っている。野球の世界にいる人たちにとっては甲子園は聖地でありあそこに出る事は何物にも代えがたいのだという主義主張は解らないでもない。だが、誰が言ったか記憶もないが「(大学までを含めて)ある協競技に熱中していられる時期と期間などは限定されている。その時期が終わった後の人生の方がはるかに長いのだ。その長期間を危うくしてしまうまでの犠牲を払ってまでやる事か」という見方がある。「いや、それは承知でリスクを冒すのだ」と言われれば「どうぞ、ご随意に」と言うしかない。そういう価値判断が出来ない生徒たちに(無理に)強いるのが正しいことなのかという疑問がある。
「何。プロや大学に行っても潰されることだってあるじゃないか」と言うのか。私の個人的な見方では佐々木朗希君(こんな名前だったか)の体は未だ出来上がっていないようだった。以前にも採り上げた話題でサニブラウン・ハキームはとレーニングの手法が優れているフロリダ大学に行って伸びたし、錦織圭はアメリカのIMGアカデミーで鍛えられた。佐々木君もこういう科学的且つ合理的な教え方をするところで体を作ることを優先すべきではないのか、もしもプロになりたいのであれば。