新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

私が考える我が国の英語教育の問題点

2021-12-18 09:33:51 | コラム
小学校3年から英語を教えようという愚策等々:

昨日も我が国の英語教育の問題点を取り上げたので、今回はその続編であり改善すべきだと思う点をを取り上げていく。

私は我が国の英語教育には数々の問題点があると見ているが、先ず文部科学省か教育審議会に伺いたいことは「何の目的で英語を教えておられるのですか」だ。実は、私はこの件については既に30年も前に自分で答えを出していたのだ。それは「英語が話せるようにしようとして教えていない。児童、生徒、学生たちに成績の優劣5段階で評価するのが目的」と、ある高校の女性の英語教師が断言したと指摘してあったことを指しているのだ。実用性など眼中にはないのだ。

だが、我が国には未だに「拙い英語で語った」とか「下手な英語で何とか説明した」などと卑下されたと言うよりも「嘆く」方が多いのだ。また、ノーベル賞受賞者の方が授賞式の場でのスピーチで“I cannot speak English.”などと言い出されたりするのだ。これなどは典型的な困った現象で、実際に「英語が出来ません」と英語で言っているのだ。

私に言わせれば「私は英語が下手なので、日本語で語ります」、即ち“I am not so good at speaking English. So, let me speak in Japanese.”のようには言って欲しかったのだ。「この程度の表現の使い分けすら出来ない教え方を、これから先に何年続ける気なのか」と問い質したくもなるのだ。これも、単語重視の教育の好ましくない結果の一つだろうと思う。

私は今日までに繰り返して「我が国は世界にも希な英語を介さずしてあらゆる分野の学問を習得できる国であるから、万人に英語教育を押しつける意義はそれほどないのでは」と指摘してきた。確かに、現在では英語が国際語となって世界の何処の国に行っても、英語が通じるようになっている。だが、それはただ単に買い物が出来るとか食事の注文が出来るという程度のことで、如何なる階層の人、乃至は知識階級の人たちと満足な意志疎通が出来ると言う次元のことではないのだ。

我が国の何パーセントの方が、例えばアメリカにでも個人で旅行されて、国会議員か大企業の幹部クラスのエリートと真剣に重要な会談をする機会が訪れるのだろうか。そんなあり得ないだろうことの為に、高度な英語を勉強する必要はないと思う。だから言うのだ「私のように英語で思うように意思表示が出来なれば仕事にならないような職を選んだか、海外に出て研究なり現地人たちの中に入って指導的な地位に就こうと目指されるのでもなければ、高度な英語力などは不要なのではないか」と。

ある有識者は言われたことが印象的だった。それは「英語教育の強化を唱える人たちは、自分の英語力が低かった為にかいた恥と屈辱を、後進(次世代?)に味合わせたくないが為に、英語教育の高度化と低年齢化を言うのだ」だった。私は現在までの教え方を継続する以上、先ずnative speakerに近いような話し方というか“I know how to express myself in English.”という領域には達することはないだろうと見ている。その教え方を小学校3年にまで降ろしても、結果は変わらないのではないのか。

また、外務省出身の宮家邦彦氏は産経新聞誌上で「英語を話せない教師が教えていては、児童や生徒が英語で話せるようになる訳がない」と喝破しておられた。尤もだと思って拝読した。

では、何処をどのように直せば良いのかだが、私は繰り返して私の勉強法だった「音読・暗記・暗唱」に加えて「単語帳と単語カードの廃止」である単語重視の教え方を止めること。さらに、英文解釈、和文英訳(英作文)、文法等々のように生き物である言葉を分割してバラバラに教えることは得策ではないことも強調しておきたい。私はこれらを全部は音読・暗記・暗唱で克服してきたと敢えて強調しておく。現に、アメリカ人たちに「君は学者だから」と言って「英文法」についての質問をされたことが何度もあった。

私が大学に入って「彼の英語力には到底太刀打ちできない」と脱帽したK君の勉強法はほぼ私と同じだったのには大いに意を強くした。彼はその英語だけではなかった優れた学力で、3年になったときに大学からアメリカのイエズス会系の大学に推薦されて転じていった。

次に強調しておきたいことは「native speakerに教えさせることを再考すべきだ」という点である。最も重要だと思う点は「彼らは日本人がどんな事で悩むか」は解らないことだ。我が国ではidiomもslangもチャンと教えていないとは知らずに来ていると思うべきなのだ。それだけではない、何度も言ってきたことで「アメリカでも何処でも、自国で立派に身を立てることが出来る者は、何もわざわざ我が国まで英語を教えにやってくることはない」のである。第一に、受け入れる側がその外国人の英語に品格があるのかを判定できるのかという問題がある。

アメリカではその出身の地域によってはとんでもない訛りがある。典型的な例が南部訛りだ。私は西海岸が正調アメリカ語だと信じている。UKだってLondon Cockneyという妙なアクセントがあるし、オーストラリアには「オーストライリア」と訛る人たちがいるのだ、“I came here today”を「アイ・カイム・ヒア・トウダイ(to die)」と発音する人がいるのだ。そういう訛りやアクセントのある英語を覚えてどうするのかということだ。

アメリカでIvy League級の大学でMBAを取得したエリートが英語教師や助教になろうと思って、我が国まで機会を求めてやってくる訳がないだろう。私の長年の主張は「本当に実力があって長い間アメリカ人たちの中で、日常的に英語で仕事をしてこられた方たちが、経験を基にして教えれば良いだろう」なのだが、私はそういう数多くの練達熟練の方々に出会って来た。だが、残念ながら、彼らには教員の資格などないのだ。あーあ。


12月17日 その2 あらためて我が国の英語教育の問題点を探る

2021-12-17 16:46:05 | コラム
矢張り問題があるのではないか:

私はこれまでに何度も我が国の学校教育に於ける英語の問題点を色々と指摘して来た。だが、悲しいかな「何とかの遠吠え」と同じで、一向に教育の現場には反映されなかった。その点では、私だけではなく、心ある有識者の方々が「小学校から英語を教えようとする愚策」も公の場で指摘されたが、この点も文科省には馬耳東風の如きである。

そこで、今回は私が気付いた「我が国の英語教育の問題点」の中から簡単な例を幾つか挙げてみようと思う。

*ある四大私立大学の学生が「“swearword”って何ですか」と反応した:
3年ほど前のことだったが、大学卒業後には海外の去る著名な競技の本部に就職したい希望があるという壮大な希望を持つ学生を紹介されたことがあった。彼はその為には何はさて措き英語の力を付けねばならないと自覚していた。紹介者は「英語の力を試してあげて欲しい」と言われたので、簡単なことを2~3質問してみた。

最初に「“swearword”とはどういう言葉を指すか承知しているか」と尋ねてみた。これはやや意地が悪い質問であり、私は学校では教えていないと承知していたのだから。

矢張り、キョトンとした表情で「何のことですか」が答えたのだった。そこで、更に理解していないだろうと承知の上で「スラング(=slang)との区別が付けられるか」とも尋ねてみた。これも“swearword”(=汚い言葉)も我が国の学校教育の英語では、こういう言葉があるとは教えていないようなのだ。

“swearword”は一定以下の階層に属する人たちや、そういう言葉を日常的に多用する階層の者たちと交流があると、自然に覚えて使ってしまうと言うか、使いたくなる魅力がある性質なのだ。重要なことは「この種の言葉を日常会話などに使ってしまうと、それは自分から私は無教養ですと告白したのと同じになってしまう」危険性がある点なのだ。その為に、知識階級や支配階層に属する人たちには相手にされなくなる危険性が非常に高くなってしまうものなのだ。

“slung”は屡々この「汚い言葉」と混同されて「下品だ」と錯覚されているのだが、それは誤りなのだ。「スラング」とは「隠語」か「ある業種乃至は集団で使われている符牒か隠語等」のことであり、決して品格に乏しい言葉ではないのだ。簡単な例を挙げておくと「ドル」(米ドル)のことを“dollar”ではなく“buck”というようなものだ。また、タクシーの運転手=taxi driverは“cabby”などと言うようなこと。

最早、私には現代の中学から大学までの英語教育の実態を知る機会もないが、こういう語法があることを教育課程の何処かで教えておくべきだと思っている。そうしておかないと、何も知らずにアメリカでもUKにでも「語学留学」などと称して出掛けていった場合に、「swearwordは使っても真似てもいけない言葉である」とは知らずに、格好が良いようだなどと錯覚して使ってしまうようなことになる危険性が高いのである。

また、話は違うが“you know”にも触れておこう。私がこれまでに何度も「native speakerたちが使うからスマートな語法だと思って使うと、知識階級とは看做されなくなる」と警告してきたphraseである。これを言葉の間に挟むと「これでnative speakerの仲間入りが出来た」とか「何となく格好が良いな」と錯覚して使ってしまう危険性が高い。ハッキリ言えば「使ってはならないphrase」なのである。何度も言ってきたことで、you knowと言うと「私は有能でありません」と広言したのと同じになってしまうのだ。これも、学校では教えていないと、経験上解っている。

始めから「swearwordは真似ても使ってはならない」と、学校教育で教えられていれば気安く使ってしまう危険性も薄らぐとは思うのだが。しかも、困ったことに、我が国では未だに「俗語」(「隠語」か「符牒」)である“slang”を、汚いか下品な言葉(swearword)と混同している人たちが多いのである。私はスラングが「汚い言葉」とは違うというような教育を学校でしておくべきだと信じている。でも、教えるべき先生方がハッキリとご存じでなければ、どうにもならないだろうが。

*アクセント:
多くの競技の国際試合の試合開始前に、厳かに対戦する両国の国歌が独唱されるか演奏される。その際には「国歌演奏につき全員ご起立を」と英語のアナウンスも流れる。ここでは「細かい揚げ足を取るな」と批判されそうなことを言うが、英語では例えば“National anthem of Japan”のように言う。この表現自体には何の問題もないのだが、アクセントの付け方が困るのだ。それは多くの場合に、男性の声でのアナウンスでは、“of”にハッキリとアクセントを置いてしまっていた。これはアメリカやUKなどの支配階層には軽蔑されかねないおかしなアクセントなのだ。

私が敢えて指摘したことは「“of”は前置詞であるから、アクセントを置いて発音しないのが普通に正確で正しいアクセントのつけ方」であり、聞こえるか聞こえないくらいに「オフ」か「フ」程度に言えば十分なのである。

あのアナウンサーのように声高らかに「ナショナルアンセム・オブ・ジャパン」とはしない方が、品格の程を示せるのである。このようなアクセントの付け方は中学校辺り(いや、今日では小学校か)で、初めて英語を教える時に正しく仕付けておかないと身に付かないのである。ましてや、それが教養の程度を示すことになるとは、子供たちには想像も出来ないだろう。

このような教育が正確に出来ていないからこそ、JRを始めとする多くの鉄道会社の車内放送に、クリステル・チアリのような出鱈目なアクセントを付けた英語を流して恥じないのである。この事は何度も摘した。また、海外に住んでおられるある同胞の方も、帰国された際に「“Please change your trains here for ~ line.”のような場合に、アクセントを置いてはならない “for”を「フォーア」のように言っているのは異常で恥ずかしい」と厳しく指摘して下さった。私は彼女の発音は国辱的な英語であると何度も指摘したが、彼女を起用する鉄道会社は増える一方だ。英語教師の方々の一層の正確な英語の勉強と奮起を促したい。

*文法:
TOEICなどなしょうもないテストに現を抜かしている暇があれば、もっと正確に誤りがないような文法の教え方をすべきだと、敢えて指摘しておきたい。小売店や食堂等で「営業中」と言いたくて“OPEN”というカンバンをぶら下げておくのは良いが、未だに方々で見かける誤りに「閉店」と示したくて“CLOSE”という札を下げている店が多いのは困る。これは、何とも情けない英文法の教え方の産物だろう。既に「閉じている」のだから、過去形の“CLOSED”となるべきだという、最低限の「現在形」と「過去形」の常識的な区別が出来ていないのには、笑う前に悲しくさせられている。

それともう一つに「午前10時」と言いたくて“AM 10:00”というように日本語の語順でAMを前に持ってきている看板が誠に多いのも情けないのだ。この辺りも、学校教育の英語で「初歩の初歩」として叩き込まれているべきことではないのか。AMとPMは時刻の後に表示されるべきものなのだ。

間違っているという点では、“GRAND OPEN”も同じ文法的な誤りである。“open”では動詞の原形であって、ここでは動名詞(=gerund)にして“OPENING”でなければならないのだ。敢えて言えば、英語教師の方々は英文法の講義で何を教えておられるのだろうか。往年の上智大学の音声学の権威、千葉勉教授は厳しく我々学生に教え込まれた「文法的な誤りを犯すことは、知識階級ではないと看做されるので、厳重に注意すること」だった。

以上は2018年10月26日に論じたことを加筆訂正したものである。


責任の取り方の問題

2021-12-17 08:11:17 | コラム
「頂門の一針」12月17日号で:

轟晃成氏が「人間社会考察」として、「責任をとる」とは如何なる事かを述べておられた。これを読んで、言うなれば触発されて、この事とは直接結びついてはいないかも知れない出来事を思い出した。

それは我が社でかなり軽率なというか、我が国の方々が“human error”即ち、人為的な失敗と表現される事故が起きた時のことだった。偶々こちらに来ていた副社長がその得意先に出向いて「早速本部の担当者と工場に厳命して可及的速やかに改善策を講じることと、現場の係長を辞めさせることにしたので、最早この種の過ちは再発しません」と言って謝罪した。

ところが、担当部署の部長さんには「その対策は誤りである。過ちを犯した者を馘首してはならない。彼をその地位に止めて何故過ちを犯したかを追及させて『失敗から学ぶこと』を経験させるべきだ。貴方方は直ぐにクビにするという短絡的な措置を講じるが、それは最善の策ではないと知るべきだ」と、理路整然と解き明かされたのだった。言い方を変えれば「アメリカ式に辞めさせることが責任の取り方ではないだろう」と説諭されたのだった。我が副社長はそれを聞いて反省し、係長を十分に説諭して留任させ、二度と同じ事故を起こさないようにした。

これだけのことなのだが「責任をとらせる」ということの考え方に、このような我が国とアメリカ式の間に違いがあると学習した出来事だったので、30数年も経った今になって取り上げてみた次第だ。

テレビの報道から拾った話

2021-12-16 07:53:31 | コラム
「なるほどね」と思った:

*モデルナと言われているモダーナ:
共同通信社の韓国・北朝鮮問題の専門家として屡々テレビに登場される平井久志氏が、ソウルから韓国のCOVID-19の現況を語られた際に「韓国ではこれまでアストラゼネカのワクチンが主体だったが、今回はモデルナと言われているモダーナも採用された」と言われた。私は正直に言って感動した。平井氏がテレビに登場される所謂専門家の中で初めて“Moderna”を正常に「モダーナ」と発音してくれたのだったから。

Moderna社がワクチンを開発したことが報道された際に、各テレビ局は挙って「モデルナ社」と呼んだ。私は自慢じゃないが、こういう会社がアメリカにあったとは知らなかったのだが、「モデルナ」という呼び方には大いに違和感があった。それは、聞こえたままに綴れば“Modelnar”辺りになってしまい、私の永年英語に慣れ親しんできた感覚では、非常に不自然だと感じたのだった。そして、それがModernaと知った時には「何で、こんな馬鹿げた呼び方をするのか」と非常に腹が立った。我が国の英語教育を心の底から「情けない」と罵った。

このrを「ル」としてカタカナ表記してしまう奇怪さというか、おかしさというか、駄目なことは、これまでに繰り返し批判してきたので、ここでは詳しいことは言わない。だが、最初に外国語に接するのは一般市民ではなく通信社か新聞社だろう。彼らは世界各国に駐在員を派遣しているのだろうし、本部には優秀な方を配置する外信部だってあるのだろう。それでいて、何でこのような奇々怪々なカタカナ表記をして、国会議員さんまでに使わせるのだろう。彼らは英和でも何でも辞書くらい持っていないのかと言いたくなる。言いたくはないが「ふざけるな」だ。

*10万円給付金騒動:
岸田総理は意外にも柔軟に対応されたと思っているこの件だ。テレビの報道からは、笑ってばかりいられないことを知らされたのだった。その中から3件ほど採り上げてみよう。

この印刷機の仕事が・・・:
ある偽造防止等の特殊印刷の仕事をしている印刷会社の社長さんが,かなり大きな多色印刷機の前に立たれて「クーポンで配布されると聞いて、この印刷機を活用する仕事を受注できると期待していたが、現金が主体になるようで」と落胆していた。印刷媒体はそれでなくてもネット広告に圧されて衰退気味であり、印刷業そのものが不振である現在、またもや見込み需要が消えていったのだから、社長さんの嘆きは十分に理解できるし、同情しながら見ていた。

子供たちにクリスマスプレゼントが買える:
街頭で現金給付となったと聞かされた若い主婦2~3人の中の一人が「現金だと有り難い。それで子供たちにクリスマスプレゼントが買える」と言って喜んで見せていた。「それは違うだろう」と、私は叫んでいた。と言うのは、関係する閣僚たちも公明党も「18歳以下の子供を抱えて生活に苦しんでいる家庭を救う為に10万円」と繰り返して強調していたのだから。それでも、クリスマスプレゼントを買ってくれれば、貯蓄に回らないだけでもマシなのだが、本来の趣旨から逸脱しているのではないのかと思って聞いていた。

銀行の振込手数料が50万円:
3億数千万円を給付することになったある地方の市役所では、係員が銀行に電話をして懸命に丁寧に「27日には振り込みたいので何とかご協力を」申し込んでいた。その振込手数料が確か50万円かかるのだとかという音声も追いかけてきた。よく考えないでも解ることで、「地方の都市であれば、振り込まれる先が銀行だけではなく各種の組合や信用金庫などのように多岐にわたるのだろうから、依頼される銀行も手数が大変なのかな」などと思いながら、テレビを見ていた。

小学校6年生の女児に午後10時になって縄跳び

2021-12-15 09:07:28 | コラム
我が国の運動競技の練習の在り方に思う:

小学生のバドミントンの指導者:
つい先頃のことだった。何気なく合わせたBSだったと思うチャンネルで、小学校6年生の女児のバドミントンの猛練習が放映されていた。この女児の目標は同年齢の全国大会での優勝であり、それを厳しく指導する監督の指導法の特集のようだった。私はその練習法には、ある意味で驚愕したが、偽らざる感想は「矢張り、我が国には未だにこういう猛練習を信奉している指導者がいたのか」だった。お断りしておくが、私はこのような指導法をどう評価するかについては意見を留保しておく。

その内容はと言えば、かなり高齢と見たコーチの方が絶え間なくシャトル(というのだったか)を女児に向かって打ち、それを指示された「アウト」とならない方向に打ち返してくのだった。これだけならば驚くには当たらないが、その数は600に達するまで続くのだ。私には600が小学校6年生の児童に過剰負担なのかどうかを判断する基準の持ち合わせはないが、この年齢の女児に対してはやり過ぎではないのかと思わずにはいられなかった。言ってみれば「画に描いたような昔ながらの猛練習」だった。

だが、午後6時からだったかに始まった練習はここで終わりではなかった。一緒に練習していた仲間の女児たちと何と5 km走に出ていったのだった。私は高校の頃でも長距離走が嫌いだったのだが、その練習を600球打った後の子供にやらせていたのは「どうかな」と思わずにはいられなかった。女児たちは「ハー、ハー」言って帰って来たので、そこで終わりかと思えば、何と未だ先があったのだった。それは縄跳びの二重跳びを300回という「余りにも苛酷では」と思わせる訓練だった。終了が午後10時でそれから夜食となるのだった。

この女児は全国大会の決勝で前回の覇者だったかと予想通りに出会ったのだったが、セットカウント1対2で敗れ去ったのだった。その様子を重症で入院していたコーチが見守っているという、何と言って良いか解らない状況だった。そのコーチは惜しまれつつも亡くなるのだった。私はいうべき言葉を知らなかったのだが、非常に偉い指導者だったのだと言うべきかとも考えた。

男子高校のバスケットボール:
中部大学一高は高校総体の優勝校で、次なる全国大会の優勝を目指して練習に励んでいる場面が放映された。この高校の監督さんはただひたすらコート内を全部あるいは部分的にダッシュさせる訓練を延々と課していた。この走力を鍛える練習には一理も二理もあるとは私も承知している。勿論、そういう基礎体力を鍛えてあったからこそ、高校総体の覇者となり得たのだろう。生徒たちは「全国には八村の出身校等々の強豪校が多々あるので、未だ未だ鍛えなければならないことが沢山ある」と言っていた。

恐らく、この練習だけではなく、基礎というか基本技も十分に練習しておくのだろうが、走力を鍛え上げた先に全国優勝があったということは、大いに意義があると思って見ていた。それは、バスケットボールは野球とは異なって40分間を走りきる体力が備わっていないことには、勝負にならない競技である。その点はサッカー、ラグビー、フットボールと同様である。野球では故金田正一や張本勲などが何かといえば「走れ、走れ」と強調するが、野球は試合開始から終わりまで走り続ける競技ではないので、自ずと意味が違うと思う。でも、必要な訓練法ではある。

女子高校のバスケットボール:
別の機会に、あの去りしオリンピックで大活躍をしてバスケットボールファンを興奮させて貰えたあの女子代表の主将だった高田真希さんがNHKのBSに出て、彼女の母校である桜花学園高校の練習法を語っていたのを聞いた。桜花学園高校ではただただ基本技の練習をこれでもかと続けるのだそうだ。私はこの練習法も理に叶っていると思って聞いた。尤も、そうする為には基礎体力が出来上がっている必要があるのだが。それだからこそ、桜花学園高校は高校総体も全国大会もほぼ独占的に優勝し続けているのだろう。「なるほど。そうだったか」と納得だった。

矢張り手前味噌も一言言わせて貰いたい。往年の我が湘南中学・高校の蹴球部では(当時はウエイトトレーニング何ていう斬新な概念も無く、練習中に水を飲むことなど禁じられていた)最も重きを置いた練習は基礎と基本技だった。これほど面白くない練習はないのだが、明けても暮れても球扱いの基本技と桜花学園と同様に1対1、1対2、2対3、5対4のような練習だった。それだからこそ、戦前には基礎練習だけで全国大会で準決勝まで出たし、昭和21年の第1回国体では優勝し、昭和23年の国体では準優勝だったのだ。

橋詰功前監督の日本大学フェニックス:
橋詰監督は立命館大学パンサーズのコーチだった頃に、アメリカの大学フットボールの強豪校、オクラホマステート大学にコーチ留学されて、アメリカ式の近代的というか合理的な練習法を学んできていた。私もそれ以前からアメリカの練習法というか、体幹と身体能力を鍛える練習法のことは聞いていた。そこでは、部員一人ひとりにコーチから「何処を鍛えておくべきか」を伝えられ、各人が自分でトレーニングをして、体を作り上げて全体練習に参加するという、我が国とは大いに趣が異なる鍛え方だった。しかも、全体練習は2~3時間だとなっているとかだ。

この部員たちの自主性と体を作り上げてというか、体力を増進し体幹を鍛え上げて、フットボールに適するようにしておくのがアメリカ式なのだ。橋詰氏はこの方式で短期間にフェニックスを作り上げてアメリカ式の最短の練習時間で、就任3年目に甲子園ボウル出場を成し遂げたのだった。このアメリカ式と上述の小学校6年生の女児の鍛え上げ方には、我が国とアメリカとの文化の違いを私は見出すのだった。