私が母校の(硬式)野球部を応援し始めたのは小学校2年生の時からだ。
野球好きの父親のバイクに乗せられて夏は毎日のように球場に通った。
甲子園が始まると、ほぼ全試合、固唾を呑んでテレビ前で見守った。
母校が夏の甲子園でベスト8に勝ち上がったことが私の意志を硬くした。
運動が苦手だったので「応援する側として甲子園を目指そう」と・・・
幸い、母校に入学できた私は高校3年間、一般生徒として応援にまい進した。
応援委員を選ばなかったのは、上から強制されることが嫌いだったから・・・
母校野球部に寄せる思いは、大学に入っても、社会人になっても変わらなかった。
いろいろと策略をめぐらし、時間を作って(サボって)何試合も応援に駆けつけ、何試合も歓喜の雄たけびを上げ、何試合も泣き崩れた。
自分だけの自己満足な、でも、充実した時間だった。
そうこうして、高校の同級生の息子が母校に入学して、野球部のレギュラーになった。
練習試合の日程を聞いて、母校グランドに足を運ぶようになった。
インターネットがジワジワと社会に浸透し始めた頃だった。
高校野球掲示板に投稿を始めて、県内他校OBと匿名同士ながら親しく交流するようになった。
2004年9月18日、白堊スポーツのホームページを立ち上げた。
誰に見られるとか、誰に伝えるとか、そんなことは考えずに練習試合、公式戦の打者毎の成績、試合展開を事細かに書き綴ることが無償の喜びとなった。
何年か後に、今年の選抜に出場を決めた高校のH校長の紹介で地元紙(夕刊)で取り上げられた。Hとは高校同級生。ほどなく、Hが出ている地元放送局のラジオ番組にも出演できた。インターネットを通した友人関係も広がり、野球に限らない母校スポーツOBとの交流も盛んになって、高校野球を皮切りに、中学野球、ハンドボール、バレーボール、あらゆるスポーツのインターネット上での実況速報を始めた。自分の知らないところで、私のホームページが話題になっているらしく、アクセス数がうなぎ上りに増えていった。ついに、地元スポーツ雑誌、大手新聞社の地元版にも載せてもらった。自分自身で驚きながらも、毎日が楽しくてしようがなかった。
知らないうちに私及び私のサイトは第三者に「公的なもの」と位置づけられるような妙な立場に近づきつつあるようだったが、私はそれにピンと来ず、言いたいことは言う姿勢を貫いた。書かないで済ませれるような私の気持ちをサイトにぶつけて何度か炎上する度に、防戦やら打ち消しにやっきとなった。ネット社会の怖さを徐々に感じるようになった。この頃からだ。私は知らず知らずに「母校を背負っている」感覚に陥り、自分の書きたいこと、言いたいことを発言できなくなりつつある自分に戸惑いはじめ、野球に関する自由な発言を控えるようになった。何も考えずにアップし続けてきた私の家族に対する誹謗中傷が2ちゃんねるで見かけられるようになって来た。新しい発言場所として選んだツイッターにおいて、あるスポーツの母校選手の顔写真入り地元紙記事をそのまま載せたところ、「誰の許可をもらって載せているんですか。」と本人から抗議が来た。「こんなに現役生徒から評判の悪いOBは見たことがない。」との書き込みもあった。母校選手の激励のためと思って行った私の行為は否定されているのだ、ということを改めて知った。ほどなくツイッターを止めた。
段々と母校のスポーツ結果をサイト(ブログ)と並行して掲載して来たフェイスブックも止めることにした。「誰かのため」に何かすることに使命感を感じて来たのだが、それが誰かのためになっていない事実は致命的だった。歳をとると何事も面倒くさくなる、ということも加わっているような気もしないではないが、何かを背負って来たつもりの自分が辛くなって来た。
私は母校の卒業生ではあるが、母校を代表して発言している者でもないし、ましてや母校や生徒に迷惑をかけるわけにはいかない。
これまでの看板を下ろし、母校を応援する一同窓生としてネット社会で生きて行こうかと思っている。みなさんが私の気持ちをわかってくれるかわからないし、これからも監視(?)はされるのかもしれないが、せっかく長く続けて来た、ある意味日記代わりのブログなのでこれからも書き続ける。別に応援されなくてもいい、拍手されなくてもいい(機能削除済み)、私は私の残り少ない人生を自分の思うように生きて行く。そして、その日常を淡々と書き綴るだけだ。
だいぶ肩の荷が下りた。
知らないうちに盛岡一高を背負ってしまった気になっていた12年6ヶ月間の勘違い。
長いと言えば長かった。短いと言えば短かった。
楽しかった日々に感謝します。ありがとうございました。
【追伸】
私にはこのブログという発言する場がありますので、あの低俗掲示板に書き込むことはこれまでもこれからも絶対にありません。みなさん、なりすまし投稿にくれぐれもご注意ください。
野球好きの父親のバイクに乗せられて夏は毎日のように球場に通った。
甲子園が始まると、ほぼ全試合、固唾を呑んでテレビ前で見守った。
母校が夏の甲子園でベスト8に勝ち上がったことが私の意志を硬くした。
運動が苦手だったので「応援する側として甲子園を目指そう」と・・・
幸い、母校に入学できた私は高校3年間、一般生徒として応援にまい進した。
応援委員を選ばなかったのは、上から強制されることが嫌いだったから・・・
母校野球部に寄せる思いは、大学に入っても、社会人になっても変わらなかった。
いろいろと策略をめぐらし、時間を作って(サボって)何試合も応援に駆けつけ、何試合も歓喜の雄たけびを上げ、何試合も泣き崩れた。
自分だけの自己満足な、でも、充実した時間だった。
そうこうして、高校の同級生の息子が母校に入学して、野球部のレギュラーになった。
練習試合の日程を聞いて、母校グランドに足を運ぶようになった。
インターネットがジワジワと社会に浸透し始めた頃だった。
高校野球掲示板に投稿を始めて、県内他校OBと匿名同士ながら親しく交流するようになった。
2004年9月18日、白堊スポーツのホームページを立ち上げた。
誰に見られるとか、誰に伝えるとか、そんなことは考えずに練習試合、公式戦の打者毎の成績、試合展開を事細かに書き綴ることが無償の喜びとなった。
何年か後に、今年の選抜に出場を決めた高校のH校長の紹介で地元紙(夕刊)で取り上げられた。Hとは高校同級生。ほどなく、Hが出ている地元放送局のラジオ番組にも出演できた。インターネットを通した友人関係も広がり、野球に限らない母校スポーツOBとの交流も盛んになって、高校野球を皮切りに、中学野球、ハンドボール、バレーボール、あらゆるスポーツのインターネット上での実況速報を始めた。自分の知らないところで、私のホームページが話題になっているらしく、アクセス数がうなぎ上りに増えていった。ついに、地元スポーツ雑誌、大手新聞社の地元版にも載せてもらった。自分自身で驚きながらも、毎日が楽しくてしようがなかった。
知らないうちに私及び私のサイトは第三者に「公的なもの」と位置づけられるような妙な立場に近づきつつあるようだったが、私はそれにピンと来ず、言いたいことは言う姿勢を貫いた。書かないで済ませれるような私の気持ちをサイトにぶつけて何度か炎上する度に、防戦やら打ち消しにやっきとなった。ネット社会の怖さを徐々に感じるようになった。この頃からだ。私は知らず知らずに「母校を背負っている」感覚に陥り、自分の書きたいこと、言いたいことを発言できなくなりつつある自分に戸惑いはじめ、野球に関する自由な発言を控えるようになった。何も考えずにアップし続けてきた私の家族に対する誹謗中傷が2ちゃんねるで見かけられるようになって来た。新しい発言場所として選んだツイッターにおいて、あるスポーツの母校選手の顔写真入り地元紙記事をそのまま載せたところ、「誰の許可をもらって載せているんですか。」と本人から抗議が来た。「こんなに現役生徒から評判の悪いOBは見たことがない。」との書き込みもあった。母校選手の激励のためと思って行った私の行為は否定されているのだ、ということを改めて知った。ほどなくツイッターを止めた。
段々と母校のスポーツ結果をサイト(ブログ)と並行して掲載して来たフェイスブックも止めることにした。「誰かのため」に何かすることに使命感を感じて来たのだが、それが誰かのためになっていない事実は致命的だった。歳をとると何事も面倒くさくなる、ということも加わっているような気もしないではないが、何かを背負って来たつもりの自分が辛くなって来た。
私は母校の卒業生ではあるが、母校を代表して発言している者でもないし、ましてや母校や生徒に迷惑をかけるわけにはいかない。
これまでの看板を下ろし、母校を応援する一同窓生としてネット社会で生きて行こうかと思っている。みなさんが私の気持ちをわかってくれるかわからないし、これからも監視(?)はされるのかもしれないが、せっかく長く続けて来た、ある意味日記代わりのブログなのでこれからも書き続ける。別に応援されなくてもいい、拍手されなくてもいい(機能削除済み)、私は私の残り少ない人生を自分の思うように生きて行く。そして、その日常を淡々と書き綴るだけだ。
だいぶ肩の荷が下りた。
知らないうちに盛岡一高を背負ってしまった気になっていた12年6ヶ月間の勘違い。
長いと言えば長かった。短いと言えば短かった。
楽しかった日々に感謝します。ありがとうございました。
【追伸】
私にはこのブログという発言する場がありますので、あの低俗掲示板に書き込むことはこれまでもこれからも絶対にありません。みなさん、なりすまし投稿にくれぐれもご注意ください。