まがりかどの先に

まがりかどの先にはきっと良いことがあると信じ、目の前の人生の小路をてくてく歩き続ける日々の雑記です。

自業自得

2018年06月05日 | 読経の日々
字田舎のこの地に生まれ、もう半世紀以上ここで暮らしてきた。
過疎化で人口も年々減り、話題もないので、字田舎の小さな中学校の同級生の消息はよく聞こえてくる。
 
今年に入り、既に二人の訃報があった。
一人は良縁があり、会社経営をしている家に入り、最近は自分でのその会社を経営していた。もう一人は、小さなころから家庭環境に問題もあり、私同様若いころは『札』付きであり、最近は消息も途絶えていた。
 
相当期間が経ってから亡くなったという話を聞いたので、あえてお宅訪ねて送ることはしなかったが、お葬式は対照的だったらしい。
 
人は旅立つときはみな一人だから、お葬式の様子には関心はないが、同じ年の顔見知りの死は、自分の『生き、死に』の境目も紙一重なのだと思い知らされる。
 
人は裕福な家庭に生まれたり、生まれたときから問題ありの家庭だったり、そもそもスタートから公平にはできていない。
 
だけれど、死ぬときはみな、自分の生きたてきた「自業自得」の中で、一人で死んでいく。
その時に残った財力、地位など外見的な結果は大きく違っても、その人が生きてきた生き様、心の点では、とても公平にできているように思う。
 
親や家庭に問題があればほとんどの場合、人が育っていく上で良いことはない。
 
でも、生きるってことは、結局自分一人の判断、行い(自業)で、その結果は必ず自分に戻ってくる(自得)。

生まれたときの環境や親の問題じゃない。
与えられた環境をどうとらえ、どう生きたかである。
 
先祖の悪い行いが子孫の時代に報いとなってあらわれるなんてことも言われたりするが、そもそも子孫を困らせてやろうなどという先祖はいない。
 
みな、その時々で、与えられた環境の中で一生懸命生きている。でも、ちょっと「バカやろう」だから、うまくいかないこともある。

結果として次世代のスタートが悪いからって、自分のバカやろうを棚に上げて、親のバカを怨むべきことではない。
そもそもおバカは家系である。
 
ある意味、過去の語り継がれている出来事は他人が作った(そう思っている)もので、その時の行いの重み、痛み、苦しみは、その当事者本人しかわからないことだ。
 
「自業自得」という言葉は、ネガティブに使われることが多いけれど、実は前向きに生きるためのkeywordなのかもしれないと思う。
 
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<今日は何の日>
今日は、神戸市老人福祉施設連盟が制定した『ろうごの日』だそうです。
 
公的年金だけではゆったり暮せない時代。これからは、老後という言葉も死語になっていくかもしれませんね。
コメント
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