今日は、6年目の3・11、東日本大震災のあった日です。
6年前のこの日、この時間、認知症が進み民間のヘルパーさんの助けを借りながら自宅にいた母の安否、失火などの心配をしながら、津波が押し寄せる中で働く仲間たちの安全確保、業務運行の保全など、連絡手段は途絶え、混沌とした中で、目の前に広がる状況を、自分を信じて判断する時間を送っていました。
受け持っていた仕事エリアで津波被害もありましたが、幸いみな無事で、母もご近所のみなさんの支援もあって事なきをえて、後年天寿を全うできました。
家族のためにも、会社の仲間たちのためにも、あたふたしただけで、何もできなかった自分の不甲斐なさ、未知の影響があるかもしれない原発事故の恐ろしさが、今のあたしの3.11の記憶です。
他人が作ったものを消費するという経済発展のためには、電力は不可欠という理由で原発の再稼働が進んでいますが、なんかなぁです。
貧しい社会って、他を下に置いて、そこから貪って、精神的にも満足する世界のような気がします。
衣食住足りて、更にその次にある豊かさって、上下関係ではなく、自分を高めることではないのでしょうか。
人が作ったものを消費するのではないく、自分で作る力を持ち時間を楽しむ、それが豊かさでは。
百姓って、今は農家を指しますが、もともとは、百のことができる、なんでも自分で生み出せるそんな仕事なんだって聞いたことがあります。
個々の意識が変わり、面白がって時間を過ごすことにお金を使えば、原発炊いて経済発展しなくても、そこそこ伸びていく道はあるような気がするのですが。
荒れた農地も山林はたくさんあります。
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