まがりかどの先に

まがりかどの先にはきっと良いことがあると信じ、目の前の人生の小路をてくてく歩き続ける日々の雑記です。

少し分かったこと

2020年01月22日 | 読経の日々

昨日、お釈迦様を話題にしたので、ちょっと続きを。

若い頃からの不摂生というか、自業自得で、心臓がだいぶ弱ってきている。
不整脈があって、お酒を飲んでいい気になっていると、続いて強い頻脈となり、すこぶる調子が悪い。

それでも、ときどき心の水路の羽目が外れてしまい、お酒を飲んでしまう。
挙句にこの度は、転んで肋骨骨折。
トホホである。

欲の尽きない小人、とても自分らしいと思う反面、懲りることをしらない、バカなのかとも思う。

今生きているこの自分も、大きな宇宙の一部で、そういう大きな自然の力から逸脱すると、やっぱり、ラクには生きられない方向に進むらしい。

頻脈であったり、呼吸が苦しかったりする中で、ある人からこんな話を聞いた。

人の呼吸は1分間に約18回。
これは、1分間に浜に打ち寄せる波の数と同じ数。
波は、太陽が1分間に18回熱放射するリズムを受けて浜に寄せ引きしているらしい。

そして、人間の体温は18の倍の36度、脈数はさらに倍の72拍。
こんな自然と連動したリズムがみなの体にできているのだという。

また、人間の組成成分は、海水のそれに近く、お母さんのお腹の中で赤ちゃんが浮いている羊水は、100%海水と同じ成分なのだとか。

なぜそうなのかは、私にはよくわからないけれど、浜を散策しながら聞く外房の荒波の音でも、とても癒されるのは、こんな大自然と体(心)が共振しているからなのだと、妙に納得した記憶がある。

不整脈で苦しい思いをしているときは、自然のあるべきリズムから体(心)が外れてしまっているからで、自然を感じながら生きるということ、自然に生きる努力をするということが大切なのだろう。

人や国土を神様が作ったという話はよく分からないが、すべての生きるリズムは、宇宙の不思議な力と関係しているということは、体調不良を通じて、少し分かってきようにも思う。

実は、死後の世界とか、地獄に落ちるとかいう話もよく分からない。

自分という物体は、死ねば終わりだと思うが、生きてきたエネルギーのようなものが、全体ではどこかで再生されていくということは、少し想像できるようになった。

少なくても、生きている間に行ったヘマは、私の死後も、子や家族に残る(再生)ということは間違いない。

宇宙の不思議な力、これを神というのかもしれないが、分からないものは、不思議な力のままの方が今のところ私には受け入れらる。


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