このブログは、もう、随分前に始めた。
書くにあたって、仏教に意識を持ち続けるために、「読経の日々」というカテゴリーを作ってぽろぽろとヒトサマにとってはどうでも良い自分のボヤキを書いて、心のバランスをとって、助けてもらってきた。
そもそも仏教は、利他の哲学。
『智慧と慈悲』がその眼目だから、『読経の日々』なんてタイトル自体、「こいつ、やばいんじゃね」って思った方がいても、そりゃ、そうだわ、って思う。
自分は、終戦後、少したった房総に生まれた。
家の墓石を見ると、近世中頃からの、刻みがあり、この字田舎での土着は先達だったよう。
もともとは、たぶんそれなりの家系だったのだろうけれど、明治の頃には、子がなく廃れ、系列から祖父母が両養子で継いだような家だ。
祖母は、父を連子で嫁いできた。
田舎の事ゆえ、その経緯も後に知ったけれど、その父と一緒になった母も、亡くなった時の相続調査の中で原戸籍を詳細に調べたとき、終戦直前に結婚し、相手の方は戦地で亡くなっていた。
戦争未亡人だったとわかり、私的には大きなショックを受けた。
このことは、母が亡くなったときまで知らなかった。
嫁いで後の、わが家は、近所では有名な貧乏一点張りの生活。
米や味噌を隣近所に頭を下げて借りに行っていた母の姿は、今もおぼろにある。
父は、私が小学校にあがった年に土木現場の事故で亡くなった。
経済的には、食うや食わずの生活の中で、戦争中をしぶとく生き抜いた『半端じゃない』、女二人に育てられた。
ばあちゃんも、かあちゃんも、大変な思いをしたんだろうなぁ、と思う。
祖母は、難しいことはわからなかったのかもしれないけれど、生活の中に、仏様の教えがあった。
正義感は強く、銭はなくても、明るく、元気に、人のためになることは進んでやる。
そんな人だった。
家は、曹洞宗だけれど、地域には天台宗の檀家さんもいる。
祖母の元気なころは、お念仏の親分で、地域のたくさんのばあちゃんたちを集めて、「なんまいだ、なんまいだ」ってやってたし、内容はおぼえていないけれど、御詠歌のようなものもリードしていたような記憶がある。
仏教は、こういうところがいい。
いくつか大きな宗派があり、自力、他力の違いなどあるけれど、そもそもが『南無釈迦牟尼仏』
お釈迦様の教えである。
「うちじゃなきゃ、ダメ!」「これをしなきゃ、地獄に落ちる」なんて言っているところはない。
自身、死後の世界から帰ってきた人に未だお目にかかったことはないし、他人を騙して、閻魔さまに舌を抜かれたって人も知らない。
70年近く生きてきて、まだ、そんな事実がないってことは、たぶん、死後の世界も、地獄もないんだろう。
あるとすれば、今、この時、この世の、自分の心の持ち方。
この、自分の心の中に、極楽も、地獄もある。
これをしっかりすれば、「あら楽し 冥土の旅も 花盛り」って、今が極楽になるようにも思う。
お釈迦様が苦悩し、人がラクに生きるために考え出した教え(哲学)に、脅し、強要や金銭の要求があるはずがない。
もし、そんなことがあるとしたら、それは、『南無釈迦牟尼仏』の世界とは違う。
仏教を名乗っていても、そんな人たちとは距離を置くべきである。
仏教っていう教えは、宗教っていうより、取り返しのつかない過去(思い、苦しみ)や、どうなるかわからない一寸先(不安など)を克服する生き方(哲学)なんだろうな、と最近思っている。
面倒くさい犯罪も多い社会だけれど、教えをいただけるお坊さんも、日々暮らす周りの人からも観音の心が感じられる。
今はとても便利な時代なので、家のお寺さん以外にもいろいろ話をきける。
高野山真言宗本山布教師『天野こうゆうほほえみ法話』というメールマガジンを購読しているのだけれど、今日はこんな内容だった。
===== ここから引用
2023/07/17/4858【未来は今想っている通りになる】
思い通りにならない。
それは結果をみてのセリフです。
自由自在という言葉があります。
自分という存在が成就に向かって自由に操る。
今想っていることが未来に現れるのです。合掌拝
===== 引用終わり
短い、ワンポイントだけれど、毎日欠かさず届く。
思い、これは大切だ。
間違いない。
このお布施に、毎朝励まされ、感謝である。
お布施は、お寺さんにするって感覚だけれど、周囲の人から、自分ももらっているんだと思う。
財法二施
功徳無量
檀波羅蜜
具足圓満
今日も感謝である。
夏の庭木の整理もかなり進めた。
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