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元外交官が語る緊迫の日韓外交

2015-08-27 07:15:00 | 報道/ニュース

8月24日 キャッチ!

 

7月 韓国ソウルで日本のメディアに公開された1枚の木の板。
以前大使館の正面玄関に掲げられていた看板である。
半分に割れた看板の裏には
“永久保存のこと
 1974年 大統領夫人暗殺事件の際 大使館乱入の際破損されたもの”
と書かれている。
41年前の看板がなぜ大切に保存されてきたのか。
そこには今以上に厳しかった日韓関係の歴史があった。
日本と韓国の国交正常化から9年後の1974年8月15日。
ソウルでパク・チョンヒ大統領暗殺未遂事件いわゆる「文世光事件」が発生した。
演説していた大統領に向かって男が銃を発砲。
パク大統領は無事だったが大統領夫人らが流れ弾に当たり亡くなった。
韓国側は逮捕した男が北朝鮮の支持を受けていたとみられることや
犯行に使われたのが日本の交番から盗まれた拳銃だったことなどから
日本政府に捜査協力や再発防止を要求。
しかし日本側が北朝鮮との関係を調べることに慎重な姿勢を示したために
数千人のデモ隊がソウルの日本大使館を取り囲み
9月6日に突如館内に乱入したのである。
当時外交官として大使館で働いていた町田貢さん。
勤務中にデモ隊の襲撃を受けけがを負ったと言う。
(元外交官 町田貢さん)
「ドアが開いてデモ隊が入ってきた。
 数名が鉄パイプと棍棒で私を殴った。
 その時ここで僕は死ぬのだなと思った。」
デモ隊によって屋上に掲げられていた日本の国旗は破り捨てられ
何もかもがめちゃくちゃに破壊された。
デモ隊が引き上げたあと町田さんは大使館の象徴である看板が亡くなっていることに気付く。
(元外交官 町田貢さん)
「韓国の情報機関の友達に
 看板をデモ隊が持って行ったからそれをすぐ取り返してくれないかと頼んだ。
 情報機関が
 半分の文字が少ない方の看板をなんとか見つけたと私のところに持ってきた。」
大使館襲撃の後も韓国国内の世論は収まらず
韓国政府も事件の責任を認めない日本政府への怒りを募らせていた。
10年前に韓国政府が公開した当時の外交文書。
パク・チョンヒ大統領狙撃事件(全15冊 事件日誌)
大統領夫人を殺害した犯人について日本に責任を強く求め
日本との国交断絶まで検討する事態となった。
状況が悪化の一途をたどるなか
水面下では何とか問題を収束させようと必死の交渉が繰り広げられていたと言う。
(元外交官 町田貢さん)
「外交というものは政治担当の外交交渉。
 大使はめったに出て行かない。
 この時は後宮大使と首相のキム・ジョンピルさんとの間で直接電話で丁々発止のやり取りをしていた。
 今まで長い間でこんな外交場面は見たことがない。」
韓国のキム・ジョンピル首相と日本大使の交渉の結果
日本のトップである当時の田中角栄総理大臣が訪韓。
大統領夫人の葬儀に参列し哀悼の意を示したが韓国側の感情は収まらない。
(元外交官 町田貢さん)
「日本側は
 できるだけ取り締まりをし捜査にも協力し使節を出し遺憾の意を表明しに行くことを合意して
 やっと1か月半ぐらいかけてこの事件の終止符を打った。」
日本政府は当時の実力者であった自民党の椎名悦三郎副総裁を特使として派遣。
夫人を亡くした大統領に頭を下げる日本の特使の姿は世界に配信され
大統領へのキム首相の働きかけもあり
事態はやっと沈静化に向かったのである。
この日40年ぶりに看板を目にした町田さん。
苦境をなんとか乗り切った当時に思いをはせた。
国交正常化から50年を経て再び悪化している日韓関係。
長年にわたって日韓外交に尽くしてきた町田さんは双方の歩み寄りが欠かせないと話した。
(元外交官 町田貢さん)
「国家関係ではお互いに超えてはならない線がある。
 それも日本も韓国も越えている。
 だから超えている線まで下がらないといけない。
 苦労して先輩たちがやっと修復して合意しその上に今日の日韓関係がある。
 後輩たちはそれを尊重してその上に新しいものを築こうとする努力がないといけない。」

 

 

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