11月17日付 読売新聞編集手帳
歴史学者の今枝由郎さんがブータンを旅したときのことという。
迷い込んだ狭い道で車が立ち往生した。
向きを変えようにも、
段差があって身動きが取れない。
と、
助けを求めたわけでもないのに、
通行人の男性がそばの石を拾い、
黙って段差を埋めはじめた。
通り合わせた人が一人、
また一人、
作業に加わる。
誰も言葉を発しない。
数分にして段差は消えた。
すべては黙々と始まり、
黙々と終わったという。
今枝さんが以前、
岩波書店の宣伝誌『図書』に寄せた随筆のなかにあるこぼれ話である。
おなじみのGNP(国民総生産)ではなく
「GNH」(国民総幸福量)を提唱しているヒマラヤ山麓の国の、
心やさしいお国柄がよく表れた挿話だろう。
10月に結婚式を挙げたばかりの初々しい国王夫妻が国賓として来日した。
あすは被災地の福島県相馬市を訪問するという。
折しも日本人はいま、
思いやりという心の小石を持ち寄って、
被災地にある苦しみの段差を埋めようとしているところである。
〈ブータンも田を植ゑる国うたの国〉(田中裕明)。
日本と似たところもある。
その国にもっと似たいところもある。