わたしは大学生のとき、英語の部活に所属して、英語のディスカッションをしていました。
当時日本経済にとって懸案になっていた石油危機や日米貿易摩擦などをテーマに英語でディスカッションをしていました。
英語を話すためのツールとして、大学生同士でディスカッションをして議論を重ねたものでした。
遠征をして大学同士の交流ディスカッションもしました。
大会の前には合宿もして、夜遅くまで練習をしたりもしました。
そのとき、常に意識していたのはロジック(logic)をもって、論理的に話すということでした。
その後、縁あって教職に就きましたが、話していてもふと気がつくと、大学時代に覚えた論理的な話し方を意識している自分に気がつきます。
校長講話をするときも、感動的なエピソードや「つかみ」をどこにもってくるかという推敲を何度もしましたが、原稿を書き終わって自分で論理性をチェックしていました。そのあと、原稿を覚えて話しました。
さて、当時の大学生は英語のディスカッションをしていなくても、日本語でもよく議論をしました。
別に反対の意見を言っても、それが人間関係で後で尾を引くこともなく、けっこう互いが言いたいことを言っていました。
しかし、今の大学生はおしなべて議論を避けます。
だから、議論にならないのです。
自分の考えや意見を言おうものなら、静かな湖の水面に石を投げ、波紋がどんどん広がり、その場の「和」を乱すことになり、周りへの影響が大きくなる。
そのように、考えているかのようです。
それは、今わたしが教員採用試験の面接練習で、教育に関する集団討論を大学生にしてもらっても同様です。
メンバーと意見が違っても、「反対」とはぜったいに言いません。
相手を気遣い話しているのが伝わってきます。
わたしなどは、英語のディスカッションで議論を一定程度した上で、手を挙げてチェアマンに「Objection!」(反対!)と叫んで、反対意見を言ったものです。
自身が教員採用試験を受けたときも、当時全国で吹き荒れていた中学生の校内暴力の原因は何かと問われたことに対して、ほかの学生は教師と生徒の信頼関係がないからと言っていました。
わたしはそうでなく、偏差値で輪切りにする高校入試、過熱する受験戦争が原因だと、データをもって主張しました。
そもそも、議論するとは他の人の意見をけなすことではありません。
考えや立場の異なる人同士が、何かの問題についてそれぞれの意見を表明し、対立を乗り越えて、一致点を見つけ出し、あるときは自分の意見や考え方を引き下げ、おりあいをつけ合意を形成する。
つまり合意形成のために議論するのです。
とはいえ、反対されると人は感情が動くことはよくあることです。
意見の違いが、「あんなこと言われた」「腹が立つ」となるのです。
しかし、だれでも自分のことを大事にしたいですし、ときには自分の生き方は認めてほしいし、一生懸命に生きているのです。
そこに共通点を見い出し、共感をもち、いっしょにやっていこうよ。
利害関係が絡んできても、相手に敵対感情をもたず、合意を導きだすのです。
今の時代、多様性社会、多文化共生。インクルーシブとか言葉が先行しているのが日本社会です。
外国人といっしょに仕事をすることも増えています。障害のある人を包摂する社会をめざしています。
ほんとうにそのような社会を志向するのなら、個人間の意見のぶつかりあいは、かならず必要になり、避けることはできないのです。
その覚悟と自覚をもって、議論して、おたがいここで共に生きていこうとする次世代を育むのが、学校の差し迫った今日的教育課題だと考えます。
全く,その通りだと思います❗
ですが、日本人の多くは、自分の考えの相違と自己の否定と同一視する方ばかりで〜
若い人は主張しないし、年配者はキレ気味に成る〜
┐(´д`)┌ヤレヤレ
個人的には、考えが違うから面白いと思うのですが~
相手に同じ考えを求めるのが、
既に農耕民族の島国の日本的かなぁ〜
と考えます。