最近の国の教育政策は、今後の「多様な共生社会」で活躍したり、貢献できる人材を育成する点に学校教育のねらいを置きすぎている傾向を、私は感じています。
「多様な共生社会」とは、外国人や外国につながる人が日本国内で増えていく社会を見据え、価値観や行動の様式のちがいをおたがいに受け入れ、どの人も自分らしく生きることができる社会です。
その実現が約10年後になると考えられていますが、10年後の社会を生き抜くためには、ちがいに柔軟に対応する必要があります。
そのために学校教育で、子どもが10年後に必要となる力を身につけることが課題となります。
たとえば、情報を自分で集めたり、思考力を深めたり、他者に自分の考えを伝えることができたり、話し合って両者の間に合意をつくるなどの力が必要です。
ICTを活用した「GIGAスクール」やプログラミング教育などを進めなければなりません。
こんなとき、教師がよくいう言葉が、「将来困ることのないように」です。
数十年前の学校教育はもっと単純で明快でした。基礎学力をつけ、友だちと仲良くして、助け合って生きていく。
しかし、今の子どもの学習内容は高度化して、複雑化しています。
これについていけない子どもがこぼれ落ちないようにしなければならないのです。
家庭環境や教育環境が異なる子どもたちを受け入れ、どの子にも一定の学力や社会参加力をつけていくことが、公教育の使命です。
教師が「将来困ることのないように」という言葉を言う前に、「いま困っている子の事実が見えていますか」と問いたいのです。
学校が複雑になりすぎて、子どもを苦しめる場であってはならないのです。いくら時代が変わろうとも。
家庭環境や教育環境が異なる子どもたちを受け入れ、どの子にも一定の学力や社会参加力をつけていくことが、公教育の使命です。
教師が「将来困ることのないように」という言葉を言う前に、「いま困っている子の事実が見えていますか」と問いたいのです。
学校が複雑になりすぎて、子どもを苦しめる場であってはならないのです。いくら時代が変わろうとも。
でも変わらないのは子供の繊細で敏感な心。
教育に関わる人が、何気なく発する言葉に深い意味をもたず(軽く発言)受け取った子供は傷つき心を閉ざしてしまう事もあります。
我が子もまた担任の教員によって2~3度心ない言葉に傷つき涙した経験があります。三者面談で。じっとこらえてその場を後に、帰り道(いつも通らない道へ)私の前方を肩を落として歩く子供の姿(泣きながら)が目に焼き付いて今でも鮮明に思い出されます。
言葉の重みを日々感じて欲しいと切に願う。
小では、独力で作った冬休みの宿題を「親に手伝ってもらったやろ」。中ではギターのネックが折れたのは、「ふざけていたから」と決めつけて責められました。高では、田舎から通っていることを「田舎の子だから知らないことが多いのでは」と言われました。
だからわたしが教師になろうとしたときには、「あのような教師にはならない」という思いでした。
とかく先生と生徒の関係では、生徒は言われても反論できない立場関係にあり、我慢を強いられることがあります。事実、わたしがそうでした。
生徒の傷つきを感知できない人は教師にならないほうがいいと思います。
子供達の個性や感性を少しの関わりだけで決めつけ否定する事は大きな罪だと思います!
中には小さな可能性でヒントをくださる教員の方もいらっしゃいます。本当の意味での良い先生方が増える事を願いたいです!