箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

不合理とともに生きる

2020年12月08日 08時15分00秒 | 教育・子育てあれこれ


日本では、最近他者に対してやさしくなくなったというか、寛容さを失った社会になっているように思うのは私だけでしょうか。

人のまちがい、失敗、誤りをきつく責め立てる人がいます。

新型コロナウイルス陽性の人が、新幹線に乗って長距離を移動したニュースについては、民放のアフタヌーン番組が、ものすごい勢いで非難していました。

本人にとっては、やむにやまれない移動の必要があったかもしれません。

でも、容赦なく、出演者みんながその行動を非難していました。

国会議員の失言に対して、メディアが「率先して」報道し、追求し、書きたてます。

たしかに、国会議員の発言の中にも「それを言ったらあかんやろ」という問題発言がけっこうあります。

非難されて当然というような行いや発言自体を責めたとしても、個人の尊厳を傷つける発言はいけません。

芸能人の犯罪に関する報道はもとより、不祥事をバッシングしたりする、その程度は徹底的に書きたて、あまりにきつすぎるのではないかと感じています。

「不正は許さない」という態度が明確に打ち出されるのです。

新型コロナウイルス感染防止のため、営業自粛を求められた店のなかでも、自粛に従わない店をSNSで批判したり、落書きをしたりする人びとも同様に、他者の誤りについて厳しくなる人が増えています。

「不正は許さん」というモードです。

厳しく非難したり、バッシングしたりする側は、正義を振りかざします。いわゆる「自粛警察」です。

しかし、自分とは違う考えをもつ者と対話するという態度や意思がないところで成立する正義はないのです。

わたしが知る限り、昭和の時代にも「こうしましょう」と決めてもしたがわない人はいました。

でも、したがわない人がいても、社会がもっと寛容で、「困りますねー」という寛容性や許容性がありました。

つまり、昭和の社会では、不合理なことに出会って、矛盾や葛藤を抱えながらも、その不合理なこととともにいっしょに生活するとか、生きていくことがありました。

「わからない」「スッとしない」こととつきあいながら生きていくことができました。

でもいまは、「わからないこと」は許せない社会であるといえるでしょう。明快に納得できないとダメなのです。


転じて、学校教育の中でも、いまは児童生徒が課題解決する力を身に付けることが、授業で重要視されています。

しかし、ふつう、課題というものは複合的な原因や要素が重なり合ってできています。

なかなか竹を割ったように、こうすれば解決できるという明快なものではない場合が多いのです。

そこで、課題を簡単にする、つまり平易化することが起こります。

簡単な問題なら、解決しやすいからです。

しかし、そうすると現実とはかけ離れた学習になってしまいます。

これからの社会を生きる子どもたちには、複雑ですぐには理解できず、解決のみちすじがみえてこない課題にも向き合っていく態度が必要だと思います。

対立とか相反することがらの板挟みを克服する弾力が必要になると思います。

このことは、OECDの進める「Education 2030プロジェクト」でも言及しています。

「新たな価値を創造する力」、
「責任ある行動をとる力」
とならんで「対立やジレンマを克服する力」が強調されています。

何ともできないと思うことでも、何かをすればなんとかなる。何もしなくても、もちこたえていけばなんとかなる。

他者に対して寛容であることは、じつは「対立やジレンマを克服する」という点からも必要になるのです。

自分もですが、他者に寛容でありたいと思います。


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