Michiyo Kamei "Shape of life"いのちのかたち  

画家 亀井三千代 記
「身体曼荼羅」春画と解剖図
michiyokamei diary

亀井三千代 HP/Michiyo Kamei official web site 

https://michika-6.wixsite.com/michiyokamei

SUMI JUNGLE 追加しました。

2018年08月13日 12時02分36秒 | 作品紹介




SUMI JUNGLEにドローイングを追加しました。↓
https://michika-6.wixsite.com/michiyokamei/sumi-drowing

他部分も地味に更新しています。
HPは展覧会の予告・終了に伴ってちょっとずつ更新が必要、
だとしたら、お金かけて誰かに任せるのではなく
自分で作り管理するのが良いと思います。



ただしこの自作のHP,スマホだと重いみたい。
自分がガラケーなのでそこんとこがよくわからない。
スマホに変えた時は改善できると思います、きっと。

ところで墨のドローイングは余剰墨を使います。
制作中に必ず墨が残りますが、
ある作家は
「捨てる」といい、
ある書家は「宿墨」といって溜めておき
それも作品に使うと言う。
書だからできることのような気もします、
というのは、残った墨はすぐ腐り、繊細な描画はアウトです。

私は墨の種類ごとに絵皿やビンに溜めておいて
ドローイングに全て使い切ります。
モチーフはベランダの植物。
ものを観ながら手を動かす練習にもなるし、
乾いて初めて表れる表情は、意外性を決して裏切らない。





ところで
あまりにも「自分が主体である」表現は
表現中につまらない自己評価が混在して
結果作品が小さなものになってしまう気がします。

逆に「自分をなくし」すぎる表現は
とてもやっかいな「無意識」「無」を追及しすぎて
無意識っぽさ、という形式の中に陥る危険がある、ように思います。
(だってそれは過ぎてから気づくことでその最中は無我夢中)

両方が同時に存在する絵画の可能性ってあると思う。
そのヒントの一つは、
他者だったり、私の周辺にあふれる否人格的なさまざまなものたち。
それらを注意深く見つめれば、
自分もその中の誰かの他者にすぎないと気づく。

そしてもう一つには
とにかく良く見て描いて、考えては描いて
悩んでは描いて、ムカついては描いて(笑)
これは根性論ではなくて、何か身体的なところにヒントがあるように思うのですが…
実のところ、私にもよくわかりません。
ドローイングはそんなことを考える良い思索の場になっています。