「世界遺産登録応援イベント」と銘打った「あすかスタンプラリー」
に参加
高松塚芝生広場で受け付けし、気楽な一般参加
高松塚~中尾山~定林寺跡~橘寺・川原寺~石舞台古墳(昼食)~
伝板葺宮跡~酒船石~亀形石造物~飛鳥寺~水落遺跡
歴史サークル員の解説を聞きながら回り、スタンプを押してもらう。
高松塚古墳
解体された後、復元された「平成の高松塚古墳」(2009.10公開)
築造当時形だけを再現したもの。中にもなにも入っていないそうだ。
版築の工法はとっていないので土が流れやすいらしい。
古墳内で発見された壁画の人物像の衣装や持ち物や盗掘から免れた
出土品の鏡などから被葬者は誰かなどある程度推察できるというの
がおもしろい。
中尾山古墳
中尾山古墳 終末期の700年代に築造された横口式の古墳
8角3段築造 内壁面は磨きあげられ赤色の水銀朱が塗られていた。
火葬骨を収めた火葬墓 被葬者は文武天皇?
古墳の上に生えている木は発掘調査が終わったS52年以降に生えたも
の・・ということはせいぜい30年ほどのものらしい。
大きくなるものだ。 右)モミジの花が可愛い
途中の道端にはヤワゲフウロが満開
ヤワゲフウロ 今に飛鳥の風物詩になりそう・・
イチゴのハウスや耕運機の音の響く田んぼのある田舎道を歩いて次の
ポイントへ。
定林寺跡
ここに30mを越す搭や堂宇があったとは信じられない静けさ。
我が同期のTさんが調べたことを発表された。拍手
その後 橘寺から石舞台へ
サクラやハナモモ・菜の花満開の石舞台公園でお弁当
周辺の小さい古墳を破壊して作られ、当時の権力者蘇我馬子の墓と
言われる。盛り土は江戸の絵図にも描かれてなく、古くからない
らしい。蘇我氏の悪行に対する刑罰で封土を剥ぎとられたとも言わ
れるらしい。
こんな巨大な石は修羅に乗せて運ばれ、穴を掘って落とし込み、土
をかぶせて次の石を置き・・して最後に土を掘り取ったのではない
かとのこと。アニメにでもしてみたらわかりやすいだろうな。
石舞台の駐車場には我が母校の高市小学校があった。
午後のコースも懐かしい場所ばかり
懐かしい通学路 川の雰囲気はあまり変わっていない。
実家のすぐ近くを通過。 右)岡寺が見えた。参道に実家があった。
伝板葺宮跡 酒舟石
伝板葺宮跡の井戸跡 1,5m下に埋まっている 酒舟石
伝板葺宮跡の辺りは飛鳥京と言われ、いくつかの遺跡が重なって埋
まっているらしい。 ここからすぐ近くに昔家の田んぼがあった。
飛鳥京遺跡のまっただ中だったのだ。
ここで有名な「乙巳の変」が起こり入鹿が殺され、蘇我氏が滅んだ。
そんな血なまぐさい事件など想像もできないのどかな田んぼの風景
が拡がっている。
宮の建物の前庭には敵が侵入した時に音で察知できるように細かい
砂利が、奥には入ってきた敵が走りにくいように人頭大の石を敷き
詰めていたと聞いてその知恵に感心した。
今の地表から1.5mぐらいの深さに遺跡は埋まっているという。
土を持ってきて埋めたの?と思ったが、山から流れ落ちた土砂で自
然に埋まったというが信じられないなあ。
右)酒舟石 用途ははっきりしない謎の石造物の1つ
このすぐ近くに畑があった。父が修学旅行の女学生と出会ったのも
ここで、以来父がなくなるまで文通や行ったり来たりの交流をもっ
たきっかけになった畑だった。
今、妹が作っている畑やタケノコ山もここからそう遠くない。
飛鳥寺を通り抜け、飛鳥寺西門跡
ここには160mの土管が埋まっていたとか。上水が通っていたことが
わかっているという。上水がどこへ引かれていたのか。謎。
昔はまだなかった亀形石造物を回り水落遺跡で解散となった。
麦畑が拡がる(観光用?) スタンプが集まった
歴史サークル員のわかりやすい説明に一般参加のみなさんも喜んで
くださったことだろう。
若い女性も大学ノートにメモしながら熱心に聞いておられた。
私もあんな若い時から勉強していればなあと思う。
今日は又一気に春というより初夏の陽気 暑いぐらいだった。
私は懐かしい見慣れた場所が多かったが、子供の頃も大きくなって
からも自然には親しんでいるが、歴史のことはあまり知らず、ちょ
っと恥ずかしい。また機会ある時について歩くことにしよう。
に参加
高松塚芝生広場で受け付けし、気楽な一般参加
高松塚~中尾山~定林寺跡~橘寺・川原寺~石舞台古墳(昼食)~
伝板葺宮跡~酒船石~亀形石造物~飛鳥寺~水落遺跡
歴史サークル員の解説を聞きながら回り、スタンプを押してもらう。
高松塚古墳
解体された後、復元された「平成の高松塚古墳」(2009.10公開)
築造当時形だけを再現したもの。中にもなにも入っていないそうだ。
版築の工法はとっていないので土が流れやすいらしい。
古墳内で発見された壁画の人物像の衣装や持ち物や盗掘から免れた
出土品の鏡などから被葬者は誰かなどある程度推察できるというの
がおもしろい。
中尾山古墳
中尾山古墳 終末期の700年代に築造された横口式の古墳
8角3段築造 内壁面は磨きあげられ赤色の水銀朱が塗られていた。
火葬骨を収めた火葬墓 被葬者は文武天皇?
古墳の上に生えている木は発掘調査が終わったS52年以降に生えたも
の・・ということはせいぜい30年ほどのものらしい。
大きくなるものだ。 右)モミジの花が可愛い
途中の道端にはヤワゲフウロが満開
ヤワゲフウロ 今に飛鳥の風物詩になりそう・・
イチゴのハウスや耕運機の音の響く田んぼのある田舎道を歩いて次の
ポイントへ。
定林寺跡
ここに30mを越す搭や堂宇があったとは信じられない静けさ。
我が同期のTさんが調べたことを発表された。拍手
その後 橘寺から石舞台へ
サクラやハナモモ・菜の花満開の石舞台公園でお弁当
周辺の小さい古墳を破壊して作られ、当時の権力者蘇我馬子の墓と
言われる。盛り土は江戸の絵図にも描かれてなく、古くからない
らしい。蘇我氏の悪行に対する刑罰で封土を剥ぎとられたとも言わ
れるらしい。
こんな巨大な石は修羅に乗せて運ばれ、穴を掘って落とし込み、土
をかぶせて次の石を置き・・して最後に土を掘り取ったのではない
かとのこと。アニメにでもしてみたらわかりやすいだろうな。
石舞台の駐車場には我が母校の高市小学校があった。
午後のコースも懐かしい場所ばかり
懐かしい通学路 川の雰囲気はあまり変わっていない。
実家のすぐ近くを通過。 右)岡寺が見えた。参道に実家があった。
伝板葺宮跡 酒舟石
伝板葺宮跡の井戸跡 1,5m下に埋まっている 酒舟石
伝板葺宮跡の辺りは飛鳥京と言われ、いくつかの遺跡が重なって埋
まっているらしい。 ここからすぐ近くに昔家の田んぼがあった。
飛鳥京遺跡のまっただ中だったのだ。
ここで有名な「乙巳の変」が起こり入鹿が殺され、蘇我氏が滅んだ。
そんな血なまぐさい事件など想像もできないのどかな田んぼの風景
が拡がっている。
宮の建物の前庭には敵が侵入した時に音で察知できるように細かい
砂利が、奥には入ってきた敵が走りにくいように人頭大の石を敷き
詰めていたと聞いてその知恵に感心した。
今の地表から1.5mぐらいの深さに遺跡は埋まっているという。
土を持ってきて埋めたの?と思ったが、山から流れ落ちた土砂で自
然に埋まったというが信じられないなあ。
右)酒舟石 用途ははっきりしない謎の石造物の1つ
このすぐ近くに畑があった。父が修学旅行の女学生と出会ったのも
ここで、以来父がなくなるまで文通や行ったり来たりの交流をもっ
たきっかけになった畑だった。
今、妹が作っている畑やタケノコ山もここからそう遠くない。
飛鳥寺を通り抜け、飛鳥寺西門跡
ここには160mの土管が埋まっていたとか。上水が通っていたことが
わかっているという。上水がどこへ引かれていたのか。謎。
昔はまだなかった亀形石造物を回り水落遺跡で解散となった。
麦畑が拡がる(観光用?) スタンプが集まった
歴史サークル員のわかりやすい説明に一般参加のみなさんも喜んで
くださったことだろう。
若い女性も大学ノートにメモしながら熱心に聞いておられた。
私もあんな若い時から勉強していればなあと思う。
今日は又一気に春というより初夏の陽気 暑いぐらいだった。
私は懐かしい見慣れた場所が多かったが、子供の頃も大きくなって
からも自然には親しんでいるが、歴史のことはあまり知らず、ちょ
っと恥ずかしい。また機会ある時について歩くことにしよう。