みどりの野原

野原の便り

6月17日 浄瑠璃寺~岩船寺 石仏巡り

2013年06月17日 | Weblog
当尾の里 地図を見ながら磨崖仏やお地蔵さまなど石仏を巡る。
まずは浄瑠璃寺を目指して歩いたが、2つ目の「たかの坊地蔵」を見逃したことにだいぶ経ってから気づく。
・・といきなり失敗で、見過ごした石仏もいくつかあるが、今までで一番たくさんの石仏を見た。
そのうちのいくつかを写真で紹介 順不同 立派な石仏や磨崖仏も多数省略

当尾(とおの)は京都府木津川市加茂町の地区、
ネット記事によると『世俗化した奈良仏教を厭う僧侶が穏遁の地として草庵を結び念仏に専心し、やがて草庵が寺院へと姿を変え、塔頭が並び「塔の尾根」ができ、いつしか「当尾」と呼ばれるようになった。』
『浄瑠璃寺や岩船寺周辺は、小田原と呼ばれ、寺院や修行場が散在し、行き交う人々のために多くの磨崖仏が造立された』 

 
               西小(にしお)の石仏群
車道脇にある。道路拡張の際に周辺にあったものを集めたと想像できるが、数の多さは半端ではない。

 
墓地の入り口両側に立つ立派な五輪塔の内のひとつ。 鎌倉時代の作で重文に指定されている。 右)車道沿いには背の高い外来種のコマツナギがコンクリートの隙間にも根を張り点々と生えていた。(写真不鮮明)

「浄瑠璃寺奥之院」の道標を見つけた。
案内板によると約16分ぐらいで行けるらしい。せっかくなので行ってみることにした。
初めは緩やかな山道。そして道しるべのところから下っていく。
かなり急な山道を下る。
奥之院って下にあるの? 少し下ってからまた登りになるのかな? と思う内にもどんどん下る一方。
どこまで下るの?・・山を下りてしまうのでは・・
またこの道を引き返すのか・・・などと思うがここまで来たら行くしかない。
そして谷に到着。そこから少し歩いたところに・・

 
丸太をつないだ橋が見えた。奥之院はあの向うに違いない。
右)奥之院と言っても建物はなく、不動明王像(大岩の上)と脇に2人の童子の像があるのみ。
鎌倉時代の線彫りの磨崖仏が割れたため後に作られたものとのことだったが、よくわからなかった。
水の多い時期には像の後ろは滝のようになるのだろうが空梅雨で今は水はない。

さて、下った分だけ登らねば・・
1歩1歩登って行くうちに元の場所へ。「行ってきたぞ~」という感じ。
往復36.7分だったので説明板の「約16分」もウソではないが「急な下り」ぐらい書いておいてほしいところ。

傘石を乗せた立派な長尾の阿弥陀如来座像や三体地蔵など見て


大岩の上に木が2本 根を張り付けているだけでよく倒れずに成長したものだ。

間もなく浄瑠璃寺に到着。
アジサイの咲く境内を一回り。建物跡を発掘調査中だった。

 
境内に咲いていたウツボグサ 「昔はどこにでもあったねえ」 
このごろはめっきり減って今日のコースでも(こんな田舎道でも)野生のものは全く見かけなかった。  右)よく熟れた山道のヒメコウゾ モミジイチゴとともに 食べたことがないお二人に食べてもらう。
      
次に岩船寺を目指す。
藪の中地蔵三尊磨崖仏・愛宕灯籠・など次々と石仏がある。

 
ホタルブクロ 自然の中に咲く花はうれしい。 よく見ればサンショウソウも花盛り(雌花序)

 
有名な「笑い仏」と称される岩船三体阿弥陀磨崖仏 微笑みの絶えない世の中が続きますように・・ 右)そばにあった「眠り仏」 お顔だけ布団から出して寝ておられるよう。

弥勒の辻磨崖仏のある車道を横切って山道をゆくと三体地蔵が現れる。

  
三体地蔵 大岩の上部にこじんまりと彫られているのがなんだかほほえましい。

岩船寺は門の外から拝観


山道を下る途中に突然現れた八帖岩 
コース途中にも大きい岩がたくさんあった。こんな大岩を見ているうちにその中に仏さんの姿が浮かび上がってきたのかもしれない。

 
           帰りに見た 大門石仏群 

仏谷と呼ばれる谷の対岸にある磨崖仏 そばへ行く道はすっかり草に覆い尽くされていたが、こちら側から見渡せる場所があった。
先に見た「西小の石仏群」もそうだが、昔、この辺りには僧坊が立ち並んでいたという。そこにどんなふうに石仏が並んでいたんだろう。
今日見た数多くの磨崖仏や石仏たち、人々がどんな思いを託していたのか・・
お手軽ハイキングでは計り知れない。  

 
ソバ畑?そんなわけはない。一面のヒメジョオンの休耕田

4時前元のバス停に到着。
浄瑠璃寺前で買ったベニジャガイモとキュウリ、岩船寺近くで買った漬物・・来た時よりも重い荷物を背負って帰路につく。
コメント (2)
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6月16日 友ヶ島 初めての第3砲台跡 

2013年06月17日 | Weblog
久~しぶりの友ヶ島。
友ヶ島とは
『加太沖に浮かぶ無人島群・・紀淡海峡に浮かぶ 地ノ島、神島、沖ノ島、虎島の総称』
今回行くのは「沖ノ島」(文中は友ヶ島)


堤川の堤防の上にテングサが干してあった。
きれいとは言えない川だがボラやフグの幼魚が群れ泳いでいるのも見え海を感じた。
奈良県民の私は「海」と言うだけでうれしくなる。

加太港で船を待つ間、綱を結んでいるおじさんがいた。

 
見事な結び。結びコブはない。嵩低く絶対ほどけない知恵が詰まっているんだなあ。
          右)カニ籠の近くに置いてあった四角い入れ物はタコを取るものらしい。
餌を入れタコが中に入ると蓋が落ちる仕掛けなのは想像できるが、どうやって蓋を固定しておくのか?
ああでもないこうでもない。近くのおじさんに聞いてみたがそれ以上のことは分からず。
「蓋に開いた小さい穴、容器の後ろの小さい穴がカギでは」というところに落ち着いたが、正解が知りたい。

 
加太港から連絡船で友ヶ島に渡る。    野奈浦桟橋に到着。

 
島で目立ったのはカンコノキ 前に実を見たことがあるが今は花も実もなかった。
ハナホソガと絶対共生の関係にあるという。 右)もうひとつ目立ったのがホウロクイチゴ

 
ホウロクイチゴ 時期が遅いのか花は少ししかなかった。実も数個見ただけ。
  
植物体の大きさに比べると小さく見える実。 それよりも実の落ちた後?の赤いガクが目立つ。

何回か来ている友ヶ島だが、今回初めて行った場所が2か所。(いつもは深蛇池の方へ行く)

 
そのひとつ日本標準時子午線(東経135°)の通る最南端の地。写真は子午線広場  
向かいに淡路島、その右端に重なって成ヶ島が見えた。 右)友ヶ島灯台 明治5年日本で8番目にできた洋風建築の灯台。今も稼働中

友ヶ島は『明治時代から終戦まで大阪湾を防衛する由良要塞の拠点のひとつ』だったらしい、
その名残 島には6か所の砲台跡があり、今回何か所かの砲台跡を巡ったが、その中でも最大の規模を持つ第3砲台跡は初めて見学した。

 
弾薬庫は地下にある。階段を下って入る。明りは全くなく他の人の持つ小さな明かりについて行く。迷路のように縦横に通路がある。

 
地上に抜けたところは丸い広場を囲んでレンガの建物と入り口が並ぶ。(全体の写真採り忘れ) 広場の真ん中の丸い跡(左の写真に一部写っている)は後で調べたら「大砲が設置されていた回転砲台」らしい。                  右)弾薬庫らしい部屋

そしてその向こうの地下道に入り、抜けるとまた同じような広場、その向こうも・・
出口はどこ? 人もばらけて少なくなり不安になる。一人だったらパニックになりそう。
丸い広場から上に続く階段を上ったが結局「戻りましょう」ということになりバック・バック


やっと地上に出てきてホッとした。
出たところには朽ちた将校宿舎の建物跡があり、弾薬庫や砲台で人が任務にあたっていたのを実感。

今日の本来の目的は生き物探しだった。
この島にはかつて観光用にされていたタイワンシカ タイワンリス クジャクが今では野生化しているという。タイワンリスは山の木の上にちょろっと姿を見たがシカやクジャクは姿を見せず。
(前にはタイワンシカを見たことがある)

 
木の幹についた傷はリスがかじった跡らしい。木の皮を食べた?
 右)半分に割れた小さいヤマモモの実がたくさん落ちていた。これはリスのが食べたらしい。

オオゴキブリやヤマナメクジ・マツにつくというアワフキムシ等の他あまり生き物は見かけなかったが、今まで見る機会のなかった場所を見学できてよかった。

 
桟橋から見えた ミズクラゲ アカクラゲ
午後3時半の臨時便で加太港に戻る。
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