みどりの野原

野原の便り

1月10日 下平田~越 ② 榎龍神・道標・豊年橋 豊年橋の碑・・飛鳥駅

2025年01月10日 | Weblog

「ミカン小屋」が判明したが、その後も面白いお話が聞け、初めての所もあった。




国道169号線の西側にある 「榎龍神御神体碑」
石材は豊年橋の石の半分が使われている。
しめ縄がかけられていた。

前は国道169号線。この国道を作る工事に伴い、少し北の岡寺へ行く3叉路にあったエノキの大木も伐られたそうだ。エノキには2匹の蛇が棲んでいて、1匹が犠牲になり、1匹も行方不明になった。
その後、いろいろと災難が続き、ヘビの祟りかといわれ、地元の人達が「榎龍神御神体碑」として祀ってからは不幸ごとも起こらなくなったという。

前を通っても意味がわからなかったが、説明を聞けてよく分かった。

少し南へ。


くっきりと深い彫りの立派な道標 文久3年(1863)の銘がある。

西面に、左)なら 京 大坂  南面に、右)岡寺 初瀬 伊勢 飛鳥社 香久山 多武峰 阿部道 などが読める。

少し南へ。

高取川に架かる現在の「豊年橋」

高取川に架かる現在の豊年橋。
国道拡張工事で豊年橋の位置は少し西に移動。
元の高取川はもう少し東を流れ、川幅も狭かった。

「豊年橋の謂れ」は、明日香村文化協会発行のブックレットになっている。
『高取川は大雨のたびに氾濫を起こし、板橋もその都度流され、田畑も荒れて村人は大変困っていた。
その高取川の改修と橋の付け替えに力を注いだ、地元越村で代々医者の家系で名医とうたわれた「服部宗賢」さん。
名声が高取藩にも届き、藩医に迎えられる。位も上がり、暮らしは豊かになったが、質素な暮らしぶりだったそう。

洪水で困り果てた人々を見て「今こそ普段からの蓄えを役立たせる時だ」と、私財を投じ高取川堤の修復と石橋の工事に取り掛かる。
食事を与え村人を石運びや工事に参加させ・・寛政8年(1796)石橋が完成。
洪水の心配がなくなり豊年がつづき、村人たちは誰いうとなくこの石橋を「豊年橋」と名付けた。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         
この宗賢が架けた石橋はおよそ160年の間人々の通行に役立った』(要約)

アフガニスタンで人道支援活動を続けた中村 哲医師を思い出した。

この石橋は、国道169号線の改修に伴い昭和36年に架け替えられ、現在のコンクリート橋になった。 


左)ほうねん橋の碑 中央)天照太神宮灯籠。右)道標
「道標」は寛政8年(1796)の銘あり。
服部宗賢による豊年橋改修落成記念に建立されたもの。
金剛山への道を示している。



「ほうねん橋の碑」石材は宗賢の架けた石橋の半分を使用。
宗賢の徳を偲んだ。


天真堂製薬株式会社 創業100年
地龍(ミミズ)エキスを配合した解熱鎮痛薬「みみず一風散」などを製造。
いつも気になって電車から見ている。


岩屋山古墳は入らず。墳丘の頂部の木に、ヤドリギが目立つ。

いつも通る道を左へ反れて登ると・・


称念寺 無住のようだ。初めて来た。


裏山を登って・・


8つの灯籠 あれっ?見たことあるぞ。
‥と思ったら・・


許世都比古命神社の境内に入った。

ムクロジの大木を見て、正面から下り、飛鳥駅へ向かう。


集められた4体のお地蔵さま。


越の道標 上部4面に仏像が刻まれている。
4面に彫刻がある。深く彫られ鮮明だ。
銘はないが、丹波佐吉作といわれている。

西面には、安政5年(1858)戌午年8月の銘
 服部甚兵衛建立(服部甚兵衛は、豊年橋を架けた宗賢の子孫なのかな?)
 台石は、称念寺寄進

下部の傷みがひどい。表面がはがれそうなところもある。

石材は花崗岩と書いてあるもの、石英閃緑岩と書かれたものもある。
花崗岩や石英閃緑岩には見えないなあ。(素人ですが・・)
砂岩のように見える(そう聞いたこともある)

とにかく、これは飛鳥を代表する立派な道標。
傷みがひどくならない前に、倒れない前に手当をしてほしい。

飛鳥駅に到着 
飛鳥観光の拠点として、シーズンにはたくさんの観光客が降りたつ。

近鉄が今の状態になるまでには複雑な過程がある。
『昭和4年当時には現在の橿原神宮前駅の名はなく、その前身「久米寺駅」があった。
久米寺駅~岡寺駅~壺阪山駅で、岡寺駅と壺阪山駅の間に駅はなく、設置を求める運動がおこり、橘寺駅の設置が決まる。

「橘寺駅」の位置は、真弓大字の近くの予定だったが、服部家が自分の土地(現在の場所)を鉄道会社に寄附して、今の場所になった。

 昭和45年に橘寺駅は「飛鳥駅」と改称された。
昔は各方面の人がここを利用したという』(資料要約)

ここでも服部さんのお名前が出た。

今日の半日コースはよく知る道筋だが、知らないことがまだまだ多い。
資料の準備、要所要所での説明もありがたかった。
すごいなあ。飛鳥。

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