天武天皇8年(679)
今日もいろいろと勉強しましたが・・むつかしい。
興味のあった所だけ自己流で・・
前回出てきた「大殿」について、注によると、内裏の正殿で、後の紫宸殿に相当するものか」と。
京都御所では南庭に続く橘・桜のある建物 紫宸殿がそれにあたるようだ。
飛鳥京では?遺構の南のあたり?エビノコ郭ではないような・・
よく理解できなかった。
6月1日「氷ふれり」氷は雹(ヒョウ)のようだ。
「大きさ桃子(もものみ)のごとし」 なんとデカい。
「雹」で思い出すのは、橿原市にある瑞花院(元 吉楽寺)の瓦の刻銘
吉楽寺は棟木銘より1443年上棟がはっきりしている。
刻銘は、建設中に瓦職人によって刻まれたもの。
落書きではあるが出来事がわかる貴重なものだ。
2005年に1度だけ機会があって、瓦を見せてもらったことがある。
瓦の刻銘「嘉吉元年5月1日 サルノトキニトクリホトナルアラリフルナリ
ヒツシサルヨリウシノハウヘフリイクナリ」
(1441年5月1日 15時~17時頃 徳利ほどの雹が降った 西南より北北東の方へ降り進んで行った)
現在でも、雹による農作物の被害などのニュースを聞くこともあるが、昔の記録にも残っているのは興味深い。
10月と11月に地震の記録もあり。
8月1日 詔して高官達におっしゃる「女人(おみな)を貢れ」と。
女人とは13歳~30歳ぐらいの女性らしい。容姿も教養も求められたのだろう。
8月11日 また、「乗馬の外に更細馬(またよきうま)を準備しておくように」と詔。
次々と要望がだされる。
かと思えば・・
10月2日 「この頃巷に悪事を働くものが増えていると聞く。それはお前たち高官の責任である。悪事を働くものがいると聞いても手を打たず、見ぬふりをしているからだ。すぐに正せば乱暴や悪事を働くものはいなくなるだろう。」
「これからは上のものは下のものを指導し、下の者は上のものを諫めて職務を務めれば、国は自然と良くなるだろう」と正当なお言葉。
また、10月「僧尼は常に寺で仏道を守るべきであるが、年老いたり、病気になったものが、僧房で暮らすのは大変だろうから、別に建物を建ててそこで暮らし、養生し薬も服用するようにせよ」と慈悲深いお言葉。
貢物も多い。
10月17日、新羅より遣いが来て、金・銀・鉄・鼎(カナエ 三本足の鉄の釜 )・錦・絹・布・皮の他、馬・狗(小型犬)・騾(ラバ)・駱駝(ラクダ)などを献上。
ラクダやラバにはびっくり。それらはどうされたのだろうか?
8月22日、国内からも「嘉禾(よきいね)」が献上された。
「畝異にして穎(かび)同じ」「嘉禾(よきいね)」とは・・
思うに、粒が揃った品質の米のことか?
この献上に関連して、12月死罪以下の罪人がすべて許された。
11月23日、初めて竜田山・大坂山に関所を置き、難波に城壁を築いた。
もう一人の講師の方からは、特別史跡のお話を聞いた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます