梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

道、昭和42、3年頃、東京外環状

2012-06-08 14:32:19 | 雑記
18歳で免許を取ってから「道」は歩く対象から外れて行った、歩くと言えば川だったり浜だったりはたまた商店街だったりして「道」を通るのは殆ど車になってしまう、
車での移動は移動先が目的になりがちで「道」その物を楽しむ事はあまり無いだろうが私はドライブと言うか移動している事自体が好きで無目的に車を走らせたり電車に乗ったりする事がある。
大手電機メーカーから最初に転職したのが東宝映画系列のアイスクリームの会社だった、
映画館のアイスクリームと東宝系のレストランに下ろす業務用のアイスクリームを配達する仕事に就いたのだが都内に直営のアイスクリームパーラーを持っていて此処を巡回して行くのが仕事である、1台の車に二人が乗車して山手線の駅毎にあるパーラーを廻るコースと有楽町界隈のレストラン、ホテルを廻るコース、劇場専門のコースの他に「大ローカルコース」と言っていた大回りコースが有った、時間とコストの割りに売上げが少なくあくまで宣伝効果を狙った展開だったので配達員は1人、丸1日掛けて廻るので8時間で廻るのが精一杯の長距離で皆が嫌がるコースなのだが週に2回有るこのコースは自分にとっては楽しいドライブになるので自ら買って出ていた、
会社は大田区の久が原、此処から最初に行くのは上野の西郷像近くにあった東宝チェリーと言うレストラン、次が京浜東北線の蕨駅前にあったレストランだが名前が覚えていない、
次は川越である、更に狭山にあるドライブインによってから16号線を下ると藤沢駅にあるパーラー、最後は鎌倉区役所の近くに有った「ラパン」と言う滝のある大きなレストランだった、上野から蕨までの道は正直言って余り印象に無い、未だ新大宮バイパスは無かったと思う、此処から17号を北上し16号線を左折、川越と狭山の店の印象も余り無いが狭山は入間川に近かったような気がする、
16号は渋滞のメッカでは有るがこの頃は今に比べれば差ほどのことも無い、
畑の中の埃っぽい道路で福生辺りでは未だ立川基地もあって日本離れした風景が国道の左側を埋めていた、「限り無く透明に近いブルー」と言う小説はこの辺りが舞台だった、
16号線は246の手前で右に分かれて467号線通称「藤沢街道」に入る、今に比べると廻りはやはり畑が多く対抗二車線の道路は結構のんびりと走れた、藤沢駅の店も余り記憶に無い、
藤沢駅の東側、市役所前の道路を海に向うと暫くして小さな川に出合う、橋を渡って直ぐ左折、
掘り抜きのトンネルと言うより「隋道」と言うほうが相応しい物を抜け、坂を下って道が直角に右に曲がる、その左が鎌倉大仏である、此処を抜けて路地の角にある六地蔵を左折すると鎌倉市役所があった、1階の広いレストランが「ラパン」と言う店で突き当たりに大きなガラス張りの先が庭になっていて大きな滝が落ちていた、此れで私の仕事は終わり、帰りは鶴岡八幡脇から北鎌倉~上大岡~横浜~第二京浜と帰って来た、来年から復活する「ダットサントラック」の1tピックアップに保冷庫を架装した車でベンチシート、コラムシフト3速である、エンジンは多分この時は1300ccだったと思うが1500ccだったかも知れない、
朝8時過ぎに出て会社に戻るのは18時頃だったと思う、走る事自体が好きだったので殆ど休憩らしい休憩も取らず、食事も走りながらとった、こう言うときにはベンチシートは具合が良い、
当然雨の日もあったはずだが覚えているのは晴ればかり、曇り空すらない、一度付き合っていた女の子を乗せて走った事も有るが何しろ走る距離が長いのでドライブ気分だった、
距離はどのくらいだったのか、燃料補給は全くしなかったのでそんなに長くはなかったのだろう、今この距離を一般道路で同じコースをとったらその時間では廻れないかも知れないな、
蕨の納品が無くて青梅街道から田無を抜けて所沢街道を行く事も何度かあったがこのコースも好きだった、道は狭いのだが空いていて信号は殆ど無かった、信号間が1時間なんて事もあってぼ~っと運転する事が出来て実に楽しかったが先日ある仕事で走ったらもう家だらけで昔の面影は殆ど無かった、

国旗と国家とアイディンティティ

2012-06-07 13:10:33 | 雑記
前に「アメリカのアイディンティティ」と言う話を書いたことがある、この話題は色んなブログが有ってそれぞれ面白く読ませてもらったし未だに検索されている様だ、
実は自分がこのテーマを考えたのは少し屈折していた、元々は「我々日本人のアイディンティティ」と言う事を考えた事が有り、「自己確立」の中で国家と言う物が今の日本人にとってどう言うものになっているのかと言う事を考え国家の成り立ちや日本国民、或いは日本と言う社会を考えてみた。
殆どの人は普段自分が日本人であると言う事なぞ自覚することは無いとは思う、しかし自分を提議する時に一番基本的なファクターとして「日本人」と言う部分は真っ先に来るのではないだろうか
此れは日本だけではなく世界中で文化を営む人の殆どはそうではかと思う
哲学的な自己認識は其れとは別に存在するだろうが「帰属する国家」は国際法以前に自己確立に必要なものではないのかと思っていた、
国家は個人の集まりで出来ているのだが其れは人種であったり、エリアであったり、宗教で有ったりしている、多くの国家はこのファクターで統一されていると言えるだろう、
特に日本は宗教を除いて単一民族国家であり所謂「島国」の為にエリアもかなりはっきりしている、宗教に関しては世界4大宗教の様なカテゴリーではなく(当然日本人の多くはこのどれかに属してはいるのだが)精神的な「日本人宗」みたいな物がある様な気がするので他の国の様に「国家宗教」の様な物は無い、
永い鎖国のせいで国際的な「国家アイディンティティ」の様なものも若干他の国とは違うかも知れない、
何故こんな事を考えるのかと言うと何度も繰り返し報道される「国歌斉唱、国旗掲揚」問題のからである、
「日の丸と君が代は戦争の記憶が有るので」から「日の丸と君が代は又日本を戦争に駆り立てる」になり更には「国旗や国家は帝国主義の象徴だから不要であると言った論調まである、
此処に至った発言者に「彼方は何人でしょうか?」と聴いてみたいのだ、無論日本国を構成するのに「国旗と国家が絶対に必要だ」と言う論拠は無い、しかし国家と言う組織に帰属し税金や法律以前に群れの結び付きの精神的な拠り所として国旗と国歌は有効で有ると言う事は国連でも国際法でも「国を表記する国旗を掲げる」事は決められている事からも解る、
民族としての象徴が「不要だ」と言う方々にとって「国家」と言うものは一体どう言うものなんだろうかと思う、
「愛国心」と言うものが「他国を排除する、或いは他国を併呑する」と全く違うのだと言う事は少し冷静に考えれば解ることだと思う、マクロで言えば家族愛が友人を排除する事に葉なら無いと言う事と原則同じ事なのだ、
彼らの考えが普遍的良識だと思うならもっと冷静に話し合う事は出来ないのか、話し合う前に実力行使では彼らの多くは教師だけにその結果がこの怠惰な若者文化の一因だとしたらその方が恐ろしい

道の3:よりみち

2012-06-06 14:46:37 | 雑記
その頃の掛川城址公園には今の様な城は無く本当に小さな公園だった、田舎の村から市内に入ると国道を渡り右側に掛川西高等学校を過ぎて栄川の橋手前を川沿いに右に行くと直ぐ左が剥き出しの崖になっていて目丈位から古木が繁っている、
川は10m程度下を流れていてその頃は未だ小魚が泳いでいるのが見えた、夏になると土手にカンナの赤と黄色の花が咲く、
公園の入り口に本当に小さな動物園が有って月の輪熊と鹿と狸、それに羊が居たが全て近くの山で捕まえた物と農家からの寄付らしい、
小さな売店がありキャラメルや菓子パン、今では妙に有名になった「静岡おでん」を売っていた、
蒟蒻と斜めに切った竹輪、それに黒はんぺんを串に刺してしょうゆ味の濃い出汁で煮ている、
注文をすると皿にとり鰹節の粉と粉海苔を振りかけてくれる、このはんぺんが今でも大好きだが田舎では「はんぺん」と言えば此れを指して東京で見た白いはんぺんは私には衝撃的な事実だった、はんぺんがあんなふわふわの物だとは思わなかったし第一味が無い、黒はんぺんは田舎に行く度に買って帰ったのだが平成に成ったら都内でも買える様になったので此れは有り難い。
駅から来た道路が動物園の脇を少し上り坂になって通り、100m程度で右に曲がりながら下り坂になる、少し進むと元々内堀だったと思われる池があって蓮が植わっていた、曲がらなければ階段を上がって重要文化財の書院である、
城山には動物園の鹿の檻を過ぎた所から左に登る、かなり広く一段の幅もある階段で少し上がると左側に太鼓倉と呼ばれる建物があり、その先は市の浄水タンクの芝広場になっていた、
更に登ってゆくと階段は狭く急になる、凡そ150mも上がると右手に茶店があって縁台が置いてある、此処で何を食べられたか覚えていないがジュースやパンを買った覚えがある、
左手にある古い井戸は「霧吹きの井戸」と言われて掛川城が攻められた時にこの井戸から噴出した霧が城全体を覆って敵を防いだという伝説の井戸で覗くと遥か下に水面が空を映しているのが見えた、この井戸は今でもそのまま有る。
此処を過ぎて右手の石段を登ると中央に基壇があって観音像が立っていた、元々江戸時代後期に地震で天守閣が崩壊してから立てられずに幕末を向え、日露戦争の時に戦勝を祝って立てられたらしい、当時は戦勝観音と呼ばれたらしいが敗戦でその名称は「平和観音」に変る、
大森付近で先に出来た埋め立てが「勝島」で敗戦後に出来たのが「平和島」だと言うのに良く似ている、
基壇の廻りに長椅子が東西南北に二基づつ設えてあってどの角か忘れたが火の見櫓が立っていた、10代の終わり頃田舎に帰り掛川の駅裏屋台で同級生と酒を飲んだ事がある(時効ゞ)
明くる日には東京に戻る必要があったので田舎には帰らず二人でこの椅子で一晩を過ごした事がある、ベンチは背もたれの無い幅が50cm程度の所に二人で寝たのだが夏だったので結構かに喰われた、明け方寝ぼけ眼を擦っていたら火の見櫓から降りてきた消防員が「あの狭い椅子の上で器用に寝返りをするので今に落ちるんじゃないかと見ていたがとうとう落ちなかったな、お陰で火の見が雑になったよ」と言われた事を覚えている、
ある時この城山で村の方向に火事の煙を見た事があるが後で其処が我が家の直ぐ近くだった事を知って「あんなに高かったのか」と改めて村の標高をしったのも此処である

道ー2

2012-06-05 15:35:37 | 雑記
県道を右に行けば掛川の駅に出る、少し奥のトンネルから駅まで「六里半」と言われていたので今の距離で18km程度、我が家からと丁度16km位だろうか?
家と市内の半分くらいの所に通っていた中学校があり、更にその半分位の場所に小学校があった、小学校までは歩いて、中学校は自転車通学だった、7~8km程度だから大した距離ではないのだが山の村である、登校時間は20分程度で着くのだが下校時間は1時間弱掛かった、
中学を卒業した年に父親と市内に引越したがその時は未だ未舗装だった、小学校に入学したのは昭和29年、村に車は2台しかなく来る自動車も1日10便程度の乗り合いバスの他は何でも打っている村の店に物を卸す車くらいしか走っていないのだがそれでも雨が続くと道路は穴だらけになる、この穴を川原や山から砂利や土を持ってきて埋める作業を村の字単位で共同で行う、
リヤカーに積んだ砂利をスコップや鍬で埋め込んでゆく、この共同作業は道路脇に伸びて来た雑草や村の中を流れる川に掛かる小橋の清掃もある、
その時意外は朝夕以外ほとんど人は見えないし車も来ないので道路は子供の遊び場でもあった、
雨の日も当然あったがどう言うわけか私の中の村道(行政上は県道だが)は真っ白の硬い道路だった、その他の小道は砂利が浮いた少し真ん中が低くなった道で両側から背の低い雑草が伸びて来ていた、
舗装道路は県道がずっと市内に近くなった所に横切っている国道1号線まで行かないと無い、
其処を越えると直ぐ左手は城跡である、廃藩置県で廃城となり天守閣の有った所には観音像が立っていた、最初は日露戦争の戦勝記念で戦勝観音と言っていたらしいが敗戦で「平和観音」と言う名前に変っていて今では綺麗な本格木造の天守閣が建っている、
その頃は平和観音である、足元を堀替わりの栄川が流れていて川を越えず城山の足元を川沿いに東に行くと小さな動物園のある公園があり、この前を南に川を渡り真っ直ぐ行けば掛川の駅である、道路はアスファルト舗装で未だ市内は殆ど2階建てで大きなビルは無い、それでも映画館が3ヶ所あった、今帰ってみると川の先に大手門が作られているが不思議な事にあの道は子供の頃の道のままに見える、私の「街」の原風景はあの背の低い町と歩道の無い道路である