梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

労音の頃

2012-06-26 11:48:30 | 雑記
15歳で上京し日立製作所亀戸工場と言う所の臨時工になった、1年弱で試験を受けて正規になって19歳後半まで凡そ4年半勤めたがこの時期の思い出が一番濃密だった気がする、
その頃の現業職には地方からの就職組みと近隣の中卒が居て都内採用者は「職業訓練生」通称「職訓」と呼ばれていて最初の1年は週に何日か教育時間が有った、
臨時工は年齢はばらばらで入ってくるので同期の者より訓練生の方が若いが待遇は上だった、
勤務していたのはレントゲン課と言う所で其処だけで300人近く居る、
中学卒業で入社した者が殆どで高卒は事務職にしか居なかった、(臨時工は別だが)
課の中に幾つかの組が有り自分が居たトランス組と言う部署だけでも50人以上居たと思う、
組長と言う肩書きの方は自分が入社した時で恐らく50代だったろう、職訓で出そうだがこの学歴だと最高で組長までだった、
300人の課長はI課長と言う方で自分が退職する1年位前に「退職前ご祝儀昇進」だと言われていた東北の工場で部長に移動して言った、学歴は知らないが恐らく大学だったのではないか、
ある時本社に入社して1年程経った幹部候補生が実習に半年レントゲン課に来た事がある、
大学を卒業して本社に入って1年後だから多分24歳程度の筈だがこの幹部候補生が最初に出社した時に課全員を集めて課長が紹介したのだがその後現場を見廻るのに課長は一方城から敬語で説明をしていた、この状況を見て(自分は此処に居てもずっと平の職工から出られないな)と思ったのが退職するきっかけだった、
しかしそれ以外は当時としては福利厚生はしっかりしていて周りは未だ週休だった頃から土曜半日になり隔週休みになり、真っ先に週休2日になった、社内には食堂の他に床屋も診療所もあり給金の不足を補って余りあった、当時の給与明細を見ると税込みで8700少々、税金と年金を引かれ組合費等を引かれると残りは7千円強だったが寮は800円位で食堂が付いていて更に後楽園の券が半額だったりでそれ程不満は無かったのだが他の同僚はかなり不満があった様だ。
組合誌で「労音」をしり、何度か言って見て音楽や舞台の楽しさを覚えたのも労音からだった
覚えているのはどちらかと言えばビッグバンドで「東京キューバンボーイズ」や「有馬徹とノーチェクバーナ」、コーラスの「ダークダックス」ともう1つが思い出せないが似た様なブループ、その頃は歌声喫茶が未だ残っていてロシア民謡は定番なので結構人気はあった、
此処で舞台の面白さも覚えた、「山城国一揆」と言う舞台を見に行ったのだがこの時「多々良純」と言う俳優を知った、ミュージカルだったような気もするが違うかも知れない
場所は新宿の厚生年金会館だったと思うがこの後暫く舞台は見なかったがその後東宝関係の会社に入ったお陰で新宿コマと帝劇を見る事が出来たのだが仕事の休憩に見るので妙にぶつ切りで余り楽しめなかった、50代になってから女房と大田区の演劇鑑賞を使って年に何度か行くが中々好みの舞台は見られない