河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

観察と洞察

2018-09-18 15:11:57 | 絵画

観察は「ことの状態をしっかりと見ること」、洞察は「ことの本質を見極めること」。

私はブログの中で「美術は視覚表現」であるから、「言葉で語らず、観ること」を強調してきた。私の考えに異論のある人は「美術は視覚表現ではない」あるいは「視覚表現のみとは限らない」のであれば、それを突き詰めて欲しい。それはそれで聞く耳を持たないわけではない。むしろ教わることも多いであろう。それから論理的合理性や感覚的必然(どうしても、皆がそう感じる根拠)を示してほしい。

まあ、人のことは置いておいて。

昔から「百聞は一見に如かず」という言葉があるように、「言葉より見ることの方が確かである」ということは、多くの者が認めるところである。しかしなぜ今日、人は言葉の情報をまず第一に得たがるのであろうか?

作業中にマウスが動いて、上の画像がアプロードされてしまった。現在の記事文章には関係ないので、不始末をお許しください。

以前も述べたことがあるが、美術館在職中に多くの展覧会が催されたが、常に残念に思ったのは、鑑賞者が会場に入るなり「まず解説パネルを読むこと」である。それを読まないと「展覧会の趣旨が分からない」「美術作品が分からない」と観客から言われる。多くの客の場内の動きは、解説パネルを読むことに5分、作品を見ることに良くて1分が相場であった(十秒くらいの人もいる)。作品にいたっては「斜め見」であって、全体を鑑賞しているとは思えない。ポスターやチラシに掲載された作品には「かぶりつき」で見る(鑑賞しているのかも知れない)。

一つ一つの作品にはどれほどの時間を与えれば、鑑賞したことになるだろうか?

人はそんなに視覚経験による記憶にそれほど優れているとは思えない。人それぞれの好みもあるが、気に入った作品であっても、じっくり見るのは職業人であって、趣味の愛好家にとって、どれほど「観察」しなければならないという基準は持っていないであろう。じっくり見る者にとって、作品の作者、年代、主題、表現様式、技法、品質など資料的な情報とそれ以上に「全体から感じる虚構性、作者の主題に対する扱いとその表現力・・・つまり力、技能、才能」などが大事だろう。

私は美術史家ではないので、文献資料より原作(オリジナル)が重要である。修復家である自分にとっては、作者の作品の創り方から技法や保存状態がどの様に歴史的に変化してきているとか、一人の作家が何を行ってきたのか「頭に入れる」ことが仕事であった。作者の制作技術が保存上の問題を作り出す。美術館が展覧会で借用した美術品は到着時と返送時には保存状態を点検して調書に記録し確認していた。これは輸送時や展覧会開催中に保存状態に支障が起きていないかどうかを観察するのであるが、私はこの作品ごとの点検の短い間に、技法について記憶するようにしていた。「目利き」であるためには、繰り返し「確認」する必要がある。多くの作家、多くの作品に触れて「表現様式、方法、技法」を頭に入れる。(美術館に偽物を買わないために・・・・)

この観察の蓄積が「修復家としての財産」であることに違いない。展覧会期間中は巡回して問題のあった作品に変化がないかどうか観察することは勿論だが、時には他の人たちと同じように「作品鑑賞」もする。体全体で「感覚的に感じ取る」ことが、修復家としてではなく「絵を描く自分」としての在り方だ。

こうして鑑賞している時にこそ「洞察」が行なわれなくてはいけない。文献資料や解説では「洞察」は起きない。見る側の感性で・・・実感することだ。先のブログの記事で近代美術の問題を取り上げたが、観念的な接し方が近代人の日常生活に食い込んでいて、「主観や実感」が軽んじられていると述べたように、「頭で考えて言葉に置き換えようとせず」にまず感じるために視覚を使ってほしい。

見て感じるところに「洞察」はある。情報過多、フェイクニュースの時代に自分を守れるだろうか?

 

 


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