これまで私は自律する表現の確立を勧める記事を書いてきた。個人の表現欲を阻害しない程度に批判的な内容も書いてきたが、ある心理学者の記事に、この先の私の主張の参考となる内容があって、ちょっと紹介がてら自分にとっても書き留めておきたかったので、引用しながら考えてみたい。
それは最近「LGBTには生産性がない」と新潮45という雑誌に投稿した、安倍晋三お気に入りの自民党議員、杉田水脈氏の記事が批判の的となっていることに関する現代ビジネスに投稿された原田隆之氏の評論文が、今回のテーマのベースにある。
氏の評の主内容は杉田議員の少数者に対する心無い攻撃に対する批判に加え、更に新潮45に追加の杉田擁護の特集が組まれたことに対する批判であるが、主題にあるように「新潮45はなぜ杉田水脈を擁護するのか?差別と偏見に満ちた心理 議論によって正すのは難しいが・・・」という展開は「差別や偏見」について心理学の専門家らしい切り口に、今回の記事の流れを借りたいと思う。
そのそも美術表現に「差別や偏見」を持ち込んだら、もはや美術ではなく、作者の主張が政治的であったり社会的なプロパガンダが目的の公告に過ぎなくなる。しかしそうした主題を扱った絵画作品など歴史的に存在する。例えば虐殺を扱ったものであれば「加害者側の主張か、あるいは被害者側の主張か」描いて表さねばならなくなると、絵画作品が持つ虚構性は、現実を超えて強調される。そしてわざとらしい表現で芸術性は半減する。それが神話や宗教であっても同じだ。実際には「偶像破壊」といってイスラムの教義から偶像を、またキリスト教の新教の暴徒によって宗教的絵画、彫刻、シンボルやミニアチュールまで燃やされる「拒否反応」が起きた。教義を押し付け崇拝することだけを強要した偶像はともかく、中には優れた中世、ルネッサンスの美術作品が被害にあった。破壊が起きた地域では、世上の受け止め方が落ち着くまで宗教的主題は避けられた。
差別や偏見によって、作者のまたその作品を愛した者たちの心情を踏みにじり、排除することで「自分たちの優位」を主張することは権力者の性格だが、一般論として共通しているだろう。原田氏の記事から「偏見の心理」心理学者オルポート(1)の「偏見とは基本的にパーソナリティの問題である」という言葉を引用している。
権威主義的パーソナリティとは、伝統主義、権威主義、弱者への攻撃性、強者への服従特徴とするパーソナリティである。ダキット(2)による「偏見の二重プロセスモデル」を紹介し、これはパーソナリティだけでなく、社会的態度(集団的優越感、集団的凝集性、集団的安心感)を介して偏見が作り上げられるプロセスを述べている。つまり大多数集団に属している自分に優越感を抱きその集団にすがって安心感を得ているため、マイノリティや革新的な人々は、自分の安心、安全を脅かすものととらえて、偏見を抱くだけでなく、攻撃的になる。これが偏見のプロセスだそうだ。集団にしか拠り所の無い彼らは、個としての自律性がなく、個人的なアイデンティティが未熟である・・・と。「個人では何もできないし、何も自分を定義できるものがない」ここにコンプレックスが生じる・・・他者に対する優越感も劣等感も同質のものであることが分かるだろう。前にも書いたが「他者に対する優越感は人殺しの次に罪が重い」と聖書に書かれているそうな。 ここで、記事元である原田氏の記事がネット上で行方不明になって、最も書いておきたかったパーソナリティ(性格、人格という意味で)について心理学者の取り上げた要素について、書けなくなってしまった。申し訳有りません。いずれにせよ、「集団的価値観」を第一義に考え、そこに身を置く日本人の多いことに失望してきたが、上記「社会的態度」に挙げられた「集団的優越感、集団的凝集性、集団的安心感」はこの国の国民性であり、顕著にみられることは確かである。「差別や偏見」を産む土台が伝統的にあるということだ。そして「個人の確立」妨げられ、自民党の憲法改正論者の言う、昨今の「個人主義が蔓延して・・・」という無知な「個人主義と利己主義の混同」に見られるように、更に「人権」を制限して、戦前に近い「国家主義、集団主義」を復権しようとする右傾化していく社会を作ろうとする者たちが増殖してしまっている。(自民党の改憲論者が理解していない個人主義とは「己の意志決定に自己責任をもって自律して生きるという考え方、生き方」のことで、残念ながらこの国で「蔓延」したことなど一度もない。) こうした「個人の確立」を阻害する国民性は美術の世界でも堅調である。多くの者が会員として組織「団体展」に属したがり、「会員」となって安心感を得ようとし、また「権威」を得たと勘違いする傾向は全国的で、地方都市の小さな「美術団体」まで及ぶ。そのことで派生する問題は「一部の者による「権力支配」であり、「価値観の押し付け」であるため、教育的かつ相互扶助的目的は見つからない。愚か者が「日展」に三回入選しただけで、田舎町では「天下」を取ったような優越感を示す者もいる。ここにはやはり「差別と偏見」が存在する。 個としての自律がないため、制作する作品に「表現の個性」などあるわけがない。この国で「個性的」といわれるものに、どこかに「ネタ元」があり、アイデアで少々色付けした集団的価値観がある。独自であることに恐れがあって、自律できないのである。良くても悪くても「破天荒な性格」だと、抜け出ていると勘違いされるから始末に悪い。兎に角、創作に喜びを感じるためには自律した自分がないと「面白くない」だろうに。以前にも書いたように「はみ出し者」である事、そう言われて世間から排除されても、自分は自分であると主張できなくてどうする。 いずれにせよ「心理学者の言うパーソナリティの問題」をもっと掘り下げたかったが、突然、新潮社の決断で「新潮45」が休刊となったニュースが優先されて、原田氏の記事が消滅した。彼の記事は「差別と偏見」が生まれる要素について心理学者的見地を述べた、誰にも読んで欲しい記事だった。今回は不発で‥‥申し訳ありません。
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