林先生の初耳学という番組はプルシャンブルー以来遠ざかっていたが、チャンネルを回していて、今回ふと手を止めた。
今回は僅かしか番組の後半の一部しか内容を見ていいないのだが一言、意見を書くのに参考になることを述べていたので、取り上げてみる。
京都大学の先生との対談で「算数で縦横高さの順に式を書いて回答を出さなければ、答えがあっていても減点する先生がいる」という話で、そういえば似たような美術の先生の話があるな・・・と思った。これは形式的なルールを要求して、本質から外れる教師が居て、教えられた生徒の危ない未来を感じさせた。教師という自分の職業が好きでなく、形式的な対応しかできなくなっているらしい。そういう人は、この日本社会には山ほどいる。学校の教師というのは、ある意味、就職先でしかなく好きでなる人は半数以下であろう。夢や目的意識が初期的に必要で、なってからは誠意や責任感も必要だ。しかし、他にこれといった職業が見当たらなかったでは?・・・どの職業でも同じことが言えそうだ。
自分の職業が好きでなかったら、やっていることに自信は持てない。そういう人に限って形式に逃げる。深く考えずに安全な選択をしているのだろうが、実は本質を放置し、形骸化している。こういう教師や役人がいるから、この国の社会は欧米と比べて二流なのだ。優れた技術者や研究者がいる隙間にこういう人たちが足を引っ張っているのだ。
自分の専門が好きでなかったら、怠け者だ。つまり「好き」は本気度の問題であり、本気でなかったら本質は放置される。怠け者で鈍感、欲の方向性を欠き、本質が見えない人は必ず表面的な形式で繕う。一般論や常識を信じ込んでいることが間違っていても、対応される側はすぐに反論できない。つまらない対応をする。私が元居た職場にもそういう人が居た。箸にも棒にもひっかからない。
京大の先生と林先生の話・・・で、林先生は確か数学と国語を塾で教えているとか・・・で「数学は論理的な組み立てで出来ていて、論理的な思考をする上で助けになる」、京大の先生「経験が通用しない場面が出て来ている。論理的な思考が大切になるだろう」と。「経験が通用しない場面」というのは、経験の未熟な若造についての話ではなく、ある程度社会経験を積んだ人が判断に困る場面があるということだろうが。年を取っていきなり「論理的思考」はできない。論理的であるためには社会のしがらみ、上司下司の間柄、情緒的な社会慣習など、いっぱいある障害を乗り越えなければならないだろう。ドイツで暮らした経験から、日本人は論理的思考は国民性からほど遠いと思う。
人はしばしば自身の経験から判断していて、そこから出られない人もいる。人と比べて一流の経験が出来る人も、そう数多くいるわけでもないし、初心者から始まり、知識や感性を積み上げていくのだが、多くの人は専門的な極致に達しないうちに、満たされしまうのだろう。例えば学歴や社会的地位、経済的満足感などは次なる努力をする障害になってもいるだろう。しかし考えてもみてください。次があるから楽しいではないか。
私は数学は不得意であるが、何となく論理的という意味も分からないでもない。しかしそれは数の世界での話してあって、現実に置き換えるには、観念的な部分を除去しなければならないと思う。つまりドイツ的論理思考は現実の上でするもので、日本人が理想について言うとき「理想とは夢や非現実のこと」と思うところには存在しえない。日本人には「理想がなかった」とも言えるが、論理的思考の行き着く先がなかったとも言える。結局先に述べた「形式的なルールで本質が見えなくなっている」人たちの話になってしまう。これは日本人の国民性か?
絵を描くことの意味を問う私の意見では「主観(実感)が大切だ」と繰り返し言う。何かしている時に、感動を伴う満足感が必要だと思う。ぼんくらにはこれが欠けてしまう。「本質」が見えないのは性格が・・・問題なのか?
私の住む島根県では北の出雲地区(松江など県の中心地)に南の石見地区がお互いに突っ張りあっている。「性格が合わない。根性が悪い」とか、お互いに言っている。南の端まで200kmから離れると、文化的孤立も生じているが、高齢者率全国2位の島根県だから、今後はもっと文化的孤立は激しくなるだろう。そこで若い人が全くいない、お年寄りの文化サークルというのが多くある中に絵画の会がある。最近、その会の展覧会を見に行った。皆趣味でやっている人ばかりと思ったら、中には日展に出品し、そのせいで県展の審査員もやっているという人もいたが・・・・。それらしき作品は区別がつかなかった。出雲は国画会などが中心で、ここ石見地区の浜田は東光会とのことで、足のけたぐりあいもいろいろあるそうな。ここの文化サークルの幹部は国立大学の教育学部美術専攻の出身者で、高校の美術教師をやっていた人たちで占められていて、日展も東光会もただの趣味の人もごちゃまぜだそうだが、初心者に「8号の筆(10mm幅)以下の筆は使ってはいけない」と教えている。私にはどうしてか理解不能だが、確かに「初心者油絵セット」には筆が3ないし4本入っているが、一番細い筆は8号ぐらいだったかもしれない・・・しかし、なぜまた? このグループの作品はざくざくと描かれていて、何を描いているのか良く分からない。私は優れた巨匠の模写や古典の良いところを学んだらと言ったら「真似は良くない」と言われた。どこで、このようなセリフを身に着けたのだろうかね?
やはり、本当は美術が好きでもないのに、教師をやって、自分に何もないために「形式」を教えて、「本質」を失わせる人が近場にいることに気が付いた。そういえば中学に上がった頃、クラブ活動を選ぶとき、姉が所属していた美術クラブに入ろうとした。顧問の先生が入部試験に自画像を描いて来いというので、思いっきり自信作を持っていったら「描き方がグロテスクだ」と言われて入部を拒否された。いまだに悪い思い出として残っているが、だからか、私の作品はしばしば「グロテスクだ!!」と言われる。しかし両親ともに不細工で、自分も不細工だ。グロテスクが絵を描くときには基本なのだ。
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