CubとSRと

ただの日記

紀元節

2021年02月11日 | 心の持ち様

 「紀元節」と言っても、「建国記念日」「建国記念の日」等と言っても、右からも左からも猛批判を食らいます。生まれ育った国の建国されたことを祝うのに何の問題があるのだろうかと思うのですけれど・・・。

 三年前に書いた日記です。↓
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  紀元節を主張すると「右翼だ」と言われ、「建国記念日じゃない、建国記念の日だ」、というと「この軟弱者が!」と言われます。
 「皇紀二千六百~年。ちゃんと言えなきゃ日本人にあらず!」
 まさかね。

   大体、二千数百年も前に遡って、の正月一日を、「めでたい日」「新年」なんだから、これを「建国記念の日」にしよう、「紀元」節、つまり「祭」、「祭日」にしようというだけのことであって、そこら辺の国の「独立記念日」なんかとは謂れが全く違うのだ。

 今朝、「正義のミカタ」で所先生が「聖徳太子の時から遡ること1260年を紀元としよう、ということになった」という話をされていた。
 これ、暦が一回り60年で、二十一回(つまり1260年)毎に、大きな変転がある、という「讖緯説(しんいせつ)」からの計算だ。
 「神武天皇が日本を作られた」のだから、大きな変転なんだ、なら、1260年前としよう、と。
 (だから少なくとも聖徳太子の以前から日本は「在る」のだから、この時点からでも日本は1400年以上続いているわけだけど)

 この時点で、「計算したら、天皇によっては百数十歳以上の長命になる」なんて間抜けなことを言うのも、「そんなに古い筈がない。大嘘だ」と騒ぎ立てるのもナンセンスの極み、ということになる。
 要は
 「確かに建国されたからこそ国があるのであって、その日時が分からないから記念日は作れない、なんて発想の方がおかしいだろう?」
 ということだ。
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 あんまり昔のことだから何も分からない。ただ、建国されたからこそ「日本」という国がある。
 ならば、建国記念日を制定するのは何もおかしいことじゃない。なければ、作ろうじゃないか。
 「古すぎていつなのか分からない」んだったら、めでたい日を選んでその日にすればいいじゃないか。

 「めでたい日」?そりゃあ、正月元旦が一番めでたいだろう、何しろ「新年」だ。
 で、昔は太陽暦じゃなくって太陰暦だったから、それで計算したら昔の正月一日は2月11日だ、と。
 これが「紀元節」の初め。
 もう一つは「皇紀」の初め。
 これ(紀元節と皇紀)が重なった話なのは当然なんだけれど、「紀元節」は日、「皇紀」は年。
 だから、重ねて説明することはできない。
 それで、転載した去年の日記の所先生の発言が出て来る。
 「聖徳太子の時から遡ること1260年を紀元としよう、ということになった」

 それこそ「昔々」のシナの思想である「讖緯説(しんいせつ)」を用いて、
 【暦が一回り60年で、二十一回(つまり1260年)毎に、大きな変転がある】
 ということは、聖徳太子という大天才が「国の在り方を改めた」ことを示しているに違いない。
 「国の在り方を改めた」。これは、「大きな変転」そのものではないか。
 だったら、聖徳太子の出現を基点にして、同じく1260年前に大変転があったと考えるべきだ。
 「そうか!その時に神武天皇が建国の大業を果たされたに違いない!」
 ということで「皇紀」が定められた。勿論、だからこれは「計算したらそうなった」というだけのことだ。
 だから「それホント?」という発問自体が愚問。
 神武天皇の実在を疑う人もいるけれど、そういう発想自体がナンセンス。
 日本の「建国の日」を決定する(研究して探し当てる、ではありませんよ)に際して、シナの古代思想である「讖緯説」を持ってくる、と言うこと自体、これは「神武創業の日なんて、どうしたって探しようがないんだ」、ということでしょう?
 それを「考古学見地からいって~」などと言うのは大、大ナンセンス!
 
 何もないところから人が生れるわけではない。いきなり、神の子孫が人間となって地上に降り立って天皇を名乗った?そんなバカなこと、あるわけない。
 【天照大神を奉じて、「豊葦原瑞穂国」を治めるべし、という神勅を戴いて、長年月懸かって奈良までを平定した一族の長が、「神武天皇」となっただけのことですよ。】

 ・・・なんてことを書くと、すぐ字面だけ見て怒り狂う人が出て来る。
 でも、この二行、自分で書きながら「凝縮されてるよなぁ」と思いますよ。中身は世界に類を見ない、感動モノのことなんですから。
 そりゃ、「~を奉じて」とか「~を治める」とか「長年月懸かって~」とか「一族の長が王に~」なんて、バラバラにして見たら世界中に掃いて捨てるほどある話でしょうけどね。けど、この「神武創業」はそんなものとは次元が違うんです。

 自らの一族を神の子孫と任じ、その神勅を奉じ「続けて」長い年月をかけて平定した「土地」を、その一族が支配する、と言うのならどこにでもある。でも、日本は違うでしょう?
 神の子孫の矜持を持ち続け、神勅を奉じ続け、長年月かけて平定した地を私せず(奪うのではなく、平らぐだけ)、一族が支配するのではなく、みんなを同族とし、族長は天皇という名の神官となる。


 こんな素晴らしい建国の思いを祝わない、そんなの要らない、ってのは、ホントどうかしてると思います。 
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久し振りに「大拍子(おおびょうし)、或いは「雑な(がさつな)捉え方」のこと

2021年02月11日 | 重箱の隅
  安倍総理の時、緊急事態宣言が「発出」された。敢えて当時の政権は「発令」と言わず「発出」と言った。何故なら「発令」という言葉は使えないから、だ。
 「発令」というのは「令」を発するということ。
 「令」は「~させる」という意味を持つ。「従わなければ罰を与える」という意味を言外に持っている。日本国憲法では「国民主権・基本的人権の尊重」の理念から、「令」を認めていない。だからあの時、罰則はなかったわけで、「令」の字は使いたくても使えず、やむを得ず「発出」という胡散臭い言葉を使わざるを得なかった。
 これでは効果は期待できないんだけど、民度の高さが「発出」であるにもかかわらず「発令」されたに近い結果をもたらした。悪しき面としては「自粛警察」の発生があるのはご存じの通り。


 今回は故意に「発出」を「発令」と意識づけるよう、印象操作が都県知事によってなされた感があるが、特別措置法をいじって何とかする、というのは付け焼刃でしかない。

 2021年01月08日 | 日々の暮らし  より

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 昨日買った「月刊HANADA」に出ていた一文。
   ↓ (驚いたことに同日の記事)
「◆尾木ママ『学校の一斉休校で子どもの逃げ場がなくなった』」(『婦人公論』六日十九時)
《親は焦りますよね。「私がちゃんと監督しないと、うちの子が落ちこぼれる」という不安からガンガン勉強させる。親子関係は崩れ、子どもの逃げ場がなくなってしまいます》
「◆尾木ママ 緊急事態宣言でも一斉休校を求めない方針の政府へ怒り心頭『なんて無防備』『なんて野蛮』(スポニチ、六日二十時)
《我が国は緊急事態宣言発出の状況であるにも関わらず全て休園休校にしないというのです。なんて無防備。なんて野蛮。自主休校にせざるを得ない親の気持ち、よくわかります》

 尾木氏は前回の緊急事態宣言で、「学校が一斉休校になったこと」を根拠にして「政権批判」をする一方、今回の緊急事態宣言で「学校が一斉休校にならないこと」を根拠にして「政権批判」を展開しています。 
 ~~コロナ禍において「リベラル標榜者」は繰り返し詭弁を駆使して政権批判を行っていますが、緊急事態宣言の要求と煽動もその政府批判の一環である可能性があります。

 「思考停止で緊急事態宣言を求める日本社会こそ緊急事態」(藤原かずえ)
  より
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