書き忘れていた。今朝(夜中)、噎せて目が覚めた。
昨晩、調子に乗って酒の肴を用意しすぎて、当然、十二分に食べた。逆流性胃炎か何かで戻ってきたものを、誤嚥したらしい。なかなか気管から戻らず、しばらく咳き込んだ。
ここで頑張って咳を続けると嘔吐することになる、と直感、極力頑張らないで咳払いをするだけにした。しかし、何かが引っ掛かっているような違和感は消えない。
困ったな、これは、と思いながら、それでも少しは軽くなったようなので、大人しく朝を待とうとしていたら、また寝てしまった。
数時間後、目が覚める。まだ胸のあたりに何か引っ掛かっているような感じがある。
このままでは肺炎になるかもしれない。肺炎予防の注射は二年ほど前にしているけど、あれはたくさん種類のある肺炎球菌全てに効くというものではないらしい。効かない奴もいて、そいつが暴れた場合、同じように肺が炎症を起こして呼吸困難になり、あの世行き、となる。
「もうしばらくして、発熱するようなら肺炎ということになる。武漢ウィルスによる肺炎だって、誤嚥性の肺炎だって、とにかく息ができなくなって溺れたような感じになるんだから、たまらんだろうな」
「肺炎、か。独り暮らしだから、例の『孤独死』ってやつだな」
そんなことを思いながら、例の如く、起き掛けの血圧測定。
上は高めの140台。脈は安定している。
もしかしたら肺炎?もしかしたら死ぬかも?
・・・なんてことを思いながら、どこか他人事というか現実味がなく、悲壮感も恐怖感も全くない。テレビを見たり小説を読んだりしていると、すぐに感情移入してしまって泣いてしまうのに、自分のことになるとそういう感情移入ができないのは、人生の苦しさ、厳しさ、悲しさなどを実感することなく生きてきた冷酷な人間なのかもしれない。
あの25年前の大地震の朝、人々は整然と並んでコンビニの開くのを待っていた。開店してからも店になだれ込むようなこともなく、順に買い物をしていた。
取材に来た記者が「何を買いに来たんですか」と質問したら、「特に必要な物はないので、ちょっと食べ物だけ買おうかと」、みたいな長閑な返答をしていた。
多くの人が瓦礫の下敷きになっている、生まれてこの方一度も経験したことのない、想像すらできないことが数キロ先で起こっている、でも、そんな惨状の発生地点ではないから、やはり、ある種、他の世界の出来事みたいでピンと来なかったのだろう。実感せよという方が無茶な話だ。
そのちょうど一年前、同月同日ほぼ同時刻に起きたロサンゼルス地震では暴動が起きたのだが。
我々日本人は、生き残ろうという「生への執着」が、少ないのだろうか。
それとも、単に危機意識(想像力)が欠如しているのだろうか。
そうではなくて、成熟した社会の優秀な構成員なのだろうか。
意拳の王向斎は日本の敗戦時、弟子の澤井健一に「日本人は一度失敗するとよく死にたがる。自分から死んでも何もならない」と諭したという。
しかし「死ぬことを心安く思い込む」日本人の気質に一目も二目も置くのが世界、でもある。
あの地震の時も今回の誤嚥も、ただただ寝ぼけ眼で「あ~。このままあの世行きかぁ~~」、なんて思っていただけの奴もいる。
そんなやつも同等に、いつお迎えが来るか、誰にも分らない。