CubとSRと

ただの日記

あの裁判の結末(前)

2021年05月16日 | 心の持ち様
 わたなべ りやうじらう のメイル・マガジン
               頂門の一針 5776号
        
    2021(令和3年)年 5月15日(土)より


「永遠に反省しない朝日新聞」
               021.05.13 (木)

「櫻井よしこvs西岡力」敗訴でも「慰安婦報道」を永遠に反省しない朝 日新聞

 自らペンで反論する術を持ちながら、司法の場で争いを仕掛けた男の訴えは退けられた。濡れ衣を着せられたのはジャーナリストの櫻井よしこ氏と 麗澤大客員教授の西岡力氏。真実を勝ち取り、判決後に初めて顔を合わせ た二人が、過ちを省みない「真の敵」を喝破する。

 5年以上に及ぶ長い法廷闘争が遂に終わりを迎えた。元朝日新聞記者の植 村隆氏が、ジャーナリストの櫻井よしこ氏と麗澤大学客員教授の西岡力氏 が執筆した雑誌記事で、名誉を毀損されたと訴えた裁判。最高裁は植村氏 の請求をいずれも棄却した一審、二審の判決を支持し、櫻井氏については 2020年11月、西岡氏については今年3月にそれぞれ原告の上告を却下する 判決を言い渡した。ここに植村氏による一連の裁判は、一審以来の原告敗 訴判決が確定する結果で完結したのである。

 ことの経緯を振り返ると、原告の植村氏は1991年8月11日付の朝日新聞(大阪本社版朝刊)で、いわゆる従軍慰安婦と称された韓国人女性の証言 を基にした記事を書いた。その仔細については後述するが、当該記事を櫻 井氏は本誌連載などで、西岡氏も著書などで「捏造」等と論評。これを不 当だとする植村氏は、執筆した両名と版元を相手に論稿の削除、損害賠償 と謝罪広告掲載を求め提訴していた。

櫻井 西岡さんの判決が確定するまで、二人で総括するのは待とう─そう 決めていたので対談が今日になりました。それにしても5年。長いです ね。法廷には何回か行かれましたか?

西岡 僕は1回だけです。これは裁判という名を借りた“政治運動”だと捉 えていたので、相手にしない方がいいと思いまして……。

櫻井 私は16年4月の第1回口頭弁論と、18年3月の本人尋問の2回出廷しま した。大法廷に漂う独特の雰囲気を味わい、彼らはこういう風に“運動”す るのだなということがよく分かりました。

西岡 まず弁護士の数が圧倒的に違いましたよね。原告側の席に、弁護士 が横にズラーッと座ってこちらを威圧していましたから。

櫻井 私が出廷した裁判でも、30人以上はいたのかしら。原告の席が、二 列三列くらいになっていました。

西岡 被告席に座る私の側は、出版社を通じて頼んだ弁護士が二人だけで した。

櫻井 そもそも札幌で裁判を起こされたわけです。私の自宅や出版社は東 京にあるし、植村氏側にも東京在住の弁護士がついている。
 そこで東京地 裁で扱って貰うよう裁判所に申請しました。札幌地裁は、一旦移送を認め たのですが、それにもかかわらず、植村氏側が異議を唱えた。生活拠点は 北海道にあり、東京に移送されたら経済的理由で裁判を受ける権利が実現 できないという理屈も挙げていました。そして支援者から署名をたくさん 集めて反対した。裁判所はそうした動きを受けて、最終的に札幌で裁判す ることになりました。当時の彼は、講演や集会で東京や韓国など各地を飛 び回っていたんですけどね。

西岡 おかしなことに私の裁判は先に東京地裁で起こしました。傍聴席は 植村氏の支援者でほぼ埋め尽くされていた

櫻井 よくわかります。私もこちら側の応援団は東京から取材にきてくれ た産経新聞くらいでした。圧倒的に多勢に無勢ですよね。法廷での植村氏 は、傍聴人に向かって訴えかけるような調子でした。裁判の前後に支援者 を集めて集会を開いていたそうですから、政治運動の印象を与えていたの は確かです。振り返れば、札幌には苦い思い出があります。1997年に川崎 で開かれた講演会で「慰安婦は強制連行ではない」という趣旨のことを話 したら、物凄い反発を受けた。抗議の多くが北海道からでした。

西岡 大量の手紙やファックスがきたそうですね。

櫻井 あの頃はメールがなかったので、事務所のファックスの紙がなくな るほどでした。一番多かったのが北教組(北海道教職員組合)からの抗議 でしたから、札幌で裁判を行えば、そういった世論に裁判官の方々が影響 されるのではという心配がありました。

西岡 それでも裁判所は、私たちの主張が正しいということまで踏み込ん だ判決を下してくれました。植村氏の取った行動はやぶ蛇でしたし、言論 人として闘わなかった報いなのではないかと思います。言論には言論で闘 うべきなのに、彼らは論争を避けて“自分が正しい”という判断を司法の場 に委ねた。卑怯なやり方だったと思いますが、私は「言論の自由」のため に絶対に負けてはならないと思っていました。

裁判所が認めた

櫻井 西岡さんが指摘した通り、植村氏の戦略は全てが裏目に出てしまい ましたね。朝日新聞で彼が書いたことは間違いで、裁判所が我々の指摘の 真実性を認めた。彼らにとって予想外の結果だったことでしょう。

 改めて裁判の争点となった植村氏の記事を見れば、〈元朝鮮人従軍慰安婦  戦後半世紀重い口開く〉との見出しが躍り、以下のように書かれていた。

〈『女子挺(てい)身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為 を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち一人がソウル市内に生存してい ることがわかり(以下略)

 櫻井氏と西岡氏は、この記事が慰安婦とはまったく無関係で、単なる勤労 奉仕活動を指すに過ぎない「女子挺身隊」の名を挙げ、日本軍が国家ぐる みで女性たちを強制連行したかのような印象を与えたとして批判してきた のだ。

西岡 今回の判決には重大な意味があります。つまりは朝日新聞が掲載し た記事が「捏造」だと裁判所が認めたわけです。これについて、今後朝日 新聞はどう責任を取るのか

櫻井 おっしゃるとおりです。もはや植村氏個人ではなく朝日新聞の問題 です。高裁判決が出た時、私は外国人記者クラブで会見をしましたが、朝 日の記者に「他の新聞も慰安婦と女子挺身隊を間違って報道していたの に、なぜ朝日だけを櫻井さんは責めるのか」と質問されました。
 私は朝日が日本で最も影響力が大きい新聞社だと自負しているのであれば、その責 任についても最も厳しく問われるのは当然だと答えたのですが、西岡さん たちが手がけた独立検証委員会の報告書を読むと、なぜ朝日が責められな ければならないのか、もうひとつの明白な理由が見えてきます。
 朝日は当 初、圧倒的に多くの慰安婦記事を書いて、ひとつの流れを作った。他社が その流れに追随するまで、朝日は多くの記事を書き続けたという事実があ ります。つまり、慰安婦の一連の報道は朝日が主導して作り上げたもの だった。そのことについての責任は大きいですね。

西岡 植村氏の記事が書かれた91年に限っても、朝日は150本もの慰安婦 関連記事を出稿した。読売23本、毎日66本、NHK13本で3社の合計でも 102本に過ぎません。朝日だけで全体の約6割、単純計算で2.4日に1本も書 いていたことになり、大キャンペーンを仕掛けたのは明白です。

櫻井 しかも朝日は他紙が書き始めると少し数を減らしている。世論に火 をつけるため猛烈に書いたのではないか。そういう意味で本当に朝日は罪 が重いということを、今回きちんと言っておきたいですね。

 (続く)
コメント
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