「道徳教育」には「押しつけ」、「強制」のイメージはありません。
しかし、では「社会の中での徳のある生き方」、ってどうやって学ぶのでしょう。
学校では道徳教育を、既に挙げた「偉人伝」や「美しい話」等の「手本」ではなく、日常の中にある話を題材として採り上げ、行います。
道徳教育では教材に答えが用意されていない。「偉人の生き方」や「稲叢の火」のような、鮮烈な結末は書かれてありません。
だから、こちら(道徳教育)に挙げてある話は、「手本」ではなく、「見本」です。
社会の一員として生きるためなのだから、それで良いようなものですが、「見本」から、また言い換えれば結末(結論)のない話から、「徳のある生き方」を話し合いで小中学校の生徒が見つけ出せるんでしょうか。
そしてそれは修身の「手本」を超える答えになるんでしょうか。社会について考える手立てどころか、そのための基礎知識だってまだ持っていないのに?
社会の仕組み、在り方そのものを知らない子供に「社会での徳のある生き方」を考えさせ、答えを出させる。
それじゃ
「自動販売機の前に百円玉が落ちていました。さて、どうでしょう」
、みたいなシュールな漫才と変わらない。漫才なら笑いが起こるけれど道徳の授業じゃ途方に暮れるだけです。
修身と道徳。対立する二つの教育の仕方は、実は対立どころか同じところから発している、と書きました。
そして対立しているように見せかけたのが、実は戦後レジームなのだ、と。
戦前と戦後を分断することによって、まず戦前の日本の否定に掛かり、最終的には戦前の日本を消滅させ、戦後の、「生まれ変わった」日本を、連合国の思う「理想の日本」に育て上げる。
修身が素晴らしい、いや、道徳の方が素晴らしい、と、口角泡を飛ばしていくら舌戦を繰り広げようとも、修身に象徴される明治以降の国家体制と、道徳に象徴される敗戦後の占領統治体制とを見比べなければ、答えは朧なままでしょう。
というわけで、以前に書いた日記を一部転載します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(略)
さて、日本が二度と立ち上がれないように(世界の脅威とならないように)、その、「脅威となる根を、全て断ち切ること」。
これが、占領軍の日本統治目的です。
池上彰氏が言っているように「最終的には、日本一国で、世界全体を敵に回して戦った」、くらい、日本は危険な国なわけです。北朝鮮どころじゃない。
GHQにとって、「危険」と見えたもの。
その1、「国家神道」
天皇、皇室を「頂点」とする国家体制。これが一番危険だ。
少なくともGHQはそう捉えた。「宗教と政治が手を組む」ことのおそろしさを、欧米諸国は身にしみて知っている。
利害関係でつながっていてこそ、「落としどころ」がある。
ところが、日本は「手を組む」どころか、宗教と政治は天皇、皇室の存在により、一体となっている。こんなおそろしいものはない。
だから、「神道指令」を出して、国家神道を廃し、「信教の自由」を盾に、一宗教、として他の宗教と並立させ、同列のもの、とした。天皇、皇室と、国民の分断、です。
実は、日本は祭祀国家であって、宗教と政治が「手を結んだもの」、ではない。法王が国を「支配する」、という、「支配者と被支配者」の関係ではなかったのですが。
その2、「教育」(教育改革、又は学制改革)
表面上は、6・3・3制になっただけ、のようですが、教育勅語を否定、国定教科書も廃止、「修身」をなくすることで、生き方の「指針」教育を廃します。
「修身」の教科書と、「道徳」の教科書を見比べられた方なら、すぐ気づかれるでしょうが、「修身」の教科書には、「手本」となる話が載せられています。
つまり、かくあれかし、という「素晴らしい生き方」を提示する。
それが「修身」です。
対して、「道徳」の教科書には、「手本」というより、「見本(一例)」となる話が載せられています。
これは「君ならどうする」、です。自分で考えさせる。
「いいじゃないか。考える力をつけさせるんだろう?」と思うのが普通ですね。
でも、たかが十年そこそこしか生きていない子供に、或る意味「人生の難題」みたいなものを考えさせ、自分で決定させるわけです。
「大丈夫!シミュレーションだから」?
子供の時に「見本」でなく、「手本」となるのは、大人です。その大人が、手本を示してやるからこそ、子供は大人を尊敬し、見習うのです。
小学生だからこそ、「考えるための物差し」を持たせてやらねばならない。それは、大人の仕事です。
そのために、「修身」という教科は、教育勅語と直結して存在するものでした。
対して、「道徳」は、「君ならどうする」と、考えさせ、「みんな平等」と教える。
「free」を「自由」と訳し、「自らに由る」責任も考慮した、明治の先人の思いを凝視せず、「自由」と「平等」を並立させたため、「権利」を強調せざるを得なくなり、「責任」を霞ませる。
運動会で、手をつないでゴール、とか、ゴール寸前で足踏みして待つとかいった笑い話は、ここから始まります。
これが「道徳」の延長です。
その3、頭脳 (公職追放)
神道指令を出すことにより、GHQが一番危険と考えた「政治と宗教の分断(支配者と被支配者の分断)」が成立しました。
次に教育改革により、これまでの教育の中心となる考えを否定、禁止します。これで、次世代に「日本」を残すことが出来なくなります。「歴史の分断」、です。
教育で、これをやる、ということはどういうことか、現在のシナ、南北朝鮮の国民の考え方を見れば分かるでしょう。国を造りかえるのは、家庭教育、学校教育をはじめとする教育の仕事です。
GHQは家庭教育、学校教育、と、徹底的に教育を変えさせたことになります。
たとえ占領統治下にあったとしても、ここまでされた国は近代には存在しないでしょう。言い換えれば、それだけ日本は脅威だったということになりますか。
さて、現実に一番危険だということから、まず、取り組んだのが頭脳、思想的中枢の追放です。
まず、国家を解体させ、教育を変えさせ、全てを新しく作り直すためには、同時に何をすればよいか。いや、何をしなければならないか。
そりゃあ、もう、簡単なことです。これまで、各分野で中心となっていた人物を全て退かせ、新しく中心人物を据える。これしかない。
占領統治をする側としては、自分等の言うことを100%聞く者を、それぞれのポストにつければ良い。簡単で確実です。
勿論、それは敗戦前の日本に在っては反主流者なわけですから、追放される側から見れば、GHQに雇われた者は「裏切り者」と言える。
言い方を変えれば、「戦後の日本は、裏切り者がつくった」とも言えます。
「そりゃ、ひどい」?そうですね、そんな無茶な論法はない。
主流と反主流の狭間で、苦しみながらも、日本を何とか復興させようとした人々が居たことを忘れてはならない。政治家には結構いたようです。正真正銘の「代議士」、ですね。
でも、まずは、「公職追放」の中身を見て置かなければならない。
学界、報道関係等々、国の思想的中枢、頭脳として機能していた組織には、全て戦争遂行を是とする人物がいて、当然それらのトップも戦争に協力していたことになります。だから、彼等を「辞めさせる」。
と言っても、GHQには細かいところまでは分からない。そのため、まず、トップを辞めさせる前に、「民主主義国家をつくるために」と称して、協力者を募集します。自薦、他薦何れでも可。
勿論、それが何を意味するのか、誰でも分かります。
これまでの国家体制に反対する者が多く応募します。採用されていく者は、例外なくこれまでの反主流派です。
GHQによって採用された数千人の「新しい国づくり」のリーダー達は、法外な額の給料を貰い、これまで主流派だった者をリストアップします。
主流派でなくても、自身の学説の邪魔になる者も、ついでに、あげる。
そのリストを遣って、GHQは主流派だった(?)人物を、「公職より追放」、とする。
文化大革命時の紅衛兵の活動に比べれば、穏やかですが、理屈は同じです。「粛清」と言っても良いでしょう。
この時、マッカーサーはGHQの組織員の大半が社会主義思想の持ち主だったことを知らず、採用した日本人の「新しい国づくりのリーダー」となる者の、ほぼ全てが同じく社会主義者であることを知らなかった。
公職追放は危険を感じて追放される前に辞めてしまった者も多数あったので、絶大な成果を発揮します。
これで、神道指令を出したことも、学制を変更したことも、現実に動き出すわけです。
(以下略)
2010年11月21日の日記
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修身と道徳について考えてみるためには、これだけの物事が係わっていることにも気をつけておかなければならないんじゃないかと思います。
しかし、では「社会の中での徳のある生き方」、ってどうやって学ぶのでしょう。
学校では道徳教育を、既に挙げた「偉人伝」や「美しい話」等の「手本」ではなく、日常の中にある話を題材として採り上げ、行います。
道徳教育では教材に答えが用意されていない。「偉人の生き方」や「稲叢の火」のような、鮮烈な結末は書かれてありません。
だから、こちら(道徳教育)に挙げてある話は、「手本」ではなく、「見本」です。
社会の一員として生きるためなのだから、それで良いようなものですが、「見本」から、また言い換えれば結末(結論)のない話から、「徳のある生き方」を話し合いで小中学校の生徒が見つけ出せるんでしょうか。
そしてそれは修身の「手本」を超える答えになるんでしょうか。社会について考える手立てどころか、そのための基礎知識だってまだ持っていないのに?
社会の仕組み、在り方そのものを知らない子供に「社会での徳のある生き方」を考えさせ、答えを出させる。
それじゃ
「自動販売機の前に百円玉が落ちていました。さて、どうでしょう」
、みたいなシュールな漫才と変わらない。漫才なら笑いが起こるけれど道徳の授業じゃ途方に暮れるだけです。
修身と道徳。対立する二つの教育の仕方は、実は対立どころか同じところから発している、と書きました。
そして対立しているように見せかけたのが、実は戦後レジームなのだ、と。
戦前と戦後を分断することによって、まず戦前の日本の否定に掛かり、最終的には戦前の日本を消滅させ、戦後の、「生まれ変わった」日本を、連合国の思う「理想の日本」に育て上げる。
修身が素晴らしい、いや、道徳の方が素晴らしい、と、口角泡を飛ばしていくら舌戦を繰り広げようとも、修身に象徴される明治以降の国家体制と、道徳に象徴される敗戦後の占領統治体制とを見比べなければ、答えは朧なままでしょう。
というわけで、以前に書いた日記を一部転載します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(略)
さて、日本が二度と立ち上がれないように(世界の脅威とならないように)、その、「脅威となる根を、全て断ち切ること」。
これが、占領軍の日本統治目的です。
池上彰氏が言っているように「最終的には、日本一国で、世界全体を敵に回して戦った」、くらい、日本は危険な国なわけです。北朝鮮どころじゃない。
GHQにとって、「危険」と見えたもの。
その1、「国家神道」
天皇、皇室を「頂点」とする国家体制。これが一番危険だ。
少なくともGHQはそう捉えた。「宗教と政治が手を組む」ことのおそろしさを、欧米諸国は身にしみて知っている。
利害関係でつながっていてこそ、「落としどころ」がある。
ところが、日本は「手を組む」どころか、宗教と政治は天皇、皇室の存在により、一体となっている。こんなおそろしいものはない。
だから、「神道指令」を出して、国家神道を廃し、「信教の自由」を盾に、一宗教、として他の宗教と並立させ、同列のもの、とした。天皇、皇室と、国民の分断、です。
実は、日本は祭祀国家であって、宗教と政治が「手を結んだもの」、ではない。法王が国を「支配する」、という、「支配者と被支配者」の関係ではなかったのですが。
その2、「教育」(教育改革、又は学制改革)
表面上は、6・3・3制になっただけ、のようですが、教育勅語を否定、国定教科書も廃止、「修身」をなくすることで、生き方の「指針」教育を廃します。
「修身」の教科書と、「道徳」の教科書を見比べられた方なら、すぐ気づかれるでしょうが、「修身」の教科書には、「手本」となる話が載せられています。
つまり、かくあれかし、という「素晴らしい生き方」を提示する。
それが「修身」です。
対して、「道徳」の教科書には、「手本」というより、「見本(一例)」となる話が載せられています。
これは「君ならどうする」、です。自分で考えさせる。
「いいじゃないか。考える力をつけさせるんだろう?」と思うのが普通ですね。
でも、たかが十年そこそこしか生きていない子供に、或る意味「人生の難題」みたいなものを考えさせ、自分で決定させるわけです。
「大丈夫!シミュレーションだから」?
子供の時に「見本」でなく、「手本」となるのは、大人です。その大人が、手本を示してやるからこそ、子供は大人を尊敬し、見習うのです。
小学生だからこそ、「考えるための物差し」を持たせてやらねばならない。それは、大人の仕事です。
そのために、「修身」という教科は、教育勅語と直結して存在するものでした。
対して、「道徳」は、「君ならどうする」と、考えさせ、「みんな平等」と教える。
「free」を「自由」と訳し、「自らに由る」責任も考慮した、明治の先人の思いを凝視せず、「自由」と「平等」を並立させたため、「権利」を強調せざるを得なくなり、「責任」を霞ませる。
運動会で、手をつないでゴール、とか、ゴール寸前で足踏みして待つとかいった笑い話は、ここから始まります。
これが「道徳」の延長です。
その3、頭脳 (公職追放)
神道指令を出すことにより、GHQが一番危険と考えた「政治と宗教の分断(支配者と被支配者の分断)」が成立しました。
次に教育改革により、これまでの教育の中心となる考えを否定、禁止します。これで、次世代に「日本」を残すことが出来なくなります。「歴史の分断」、です。
教育で、これをやる、ということはどういうことか、現在のシナ、南北朝鮮の国民の考え方を見れば分かるでしょう。国を造りかえるのは、家庭教育、学校教育をはじめとする教育の仕事です。
GHQは家庭教育、学校教育、と、徹底的に教育を変えさせたことになります。
たとえ占領統治下にあったとしても、ここまでされた国は近代には存在しないでしょう。言い換えれば、それだけ日本は脅威だったということになりますか。
さて、現実に一番危険だということから、まず、取り組んだのが頭脳、思想的中枢の追放です。
まず、国家を解体させ、教育を変えさせ、全てを新しく作り直すためには、同時に何をすればよいか。いや、何をしなければならないか。
そりゃあ、もう、簡単なことです。これまで、各分野で中心となっていた人物を全て退かせ、新しく中心人物を据える。これしかない。
占領統治をする側としては、自分等の言うことを100%聞く者を、それぞれのポストにつければ良い。簡単で確実です。
勿論、それは敗戦前の日本に在っては反主流者なわけですから、追放される側から見れば、GHQに雇われた者は「裏切り者」と言える。
言い方を変えれば、「戦後の日本は、裏切り者がつくった」とも言えます。
「そりゃ、ひどい」?そうですね、そんな無茶な論法はない。
主流と反主流の狭間で、苦しみながらも、日本を何とか復興させようとした人々が居たことを忘れてはならない。政治家には結構いたようです。正真正銘の「代議士」、ですね。
でも、まずは、「公職追放」の中身を見て置かなければならない。
学界、報道関係等々、国の思想的中枢、頭脳として機能していた組織には、全て戦争遂行を是とする人物がいて、当然それらのトップも戦争に協力していたことになります。だから、彼等を「辞めさせる」。
と言っても、GHQには細かいところまでは分からない。そのため、まず、トップを辞めさせる前に、「民主主義国家をつくるために」と称して、協力者を募集します。自薦、他薦何れでも可。
勿論、それが何を意味するのか、誰でも分かります。
これまでの国家体制に反対する者が多く応募します。採用されていく者は、例外なくこれまでの反主流派です。
GHQによって採用された数千人の「新しい国づくり」のリーダー達は、法外な額の給料を貰い、これまで主流派だった者をリストアップします。
主流派でなくても、自身の学説の邪魔になる者も、ついでに、あげる。
そのリストを遣って、GHQは主流派だった(?)人物を、「公職より追放」、とする。
文化大革命時の紅衛兵の活動に比べれば、穏やかですが、理屈は同じです。「粛清」と言っても良いでしょう。
この時、マッカーサーはGHQの組織員の大半が社会主義思想の持ち主だったことを知らず、採用した日本人の「新しい国づくりのリーダー」となる者の、ほぼ全てが同じく社会主義者であることを知らなかった。
公職追放は危険を感じて追放される前に辞めてしまった者も多数あったので、絶大な成果を発揮します。
これで、神道指令を出したことも、学制を変更したことも、現実に動き出すわけです。
(以下略)
2010年11月21日の日記
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修身と道徳について考えてみるためには、これだけの物事が係わっていることにも気をつけておかなければならないんじゃないかと思います。
2013.09/15