「修身と道徳」の違い、ってのは、分かったようで能く分からない。
「何となく分かっているような気がしていたんだけど」
、という人、いません?
「修身は戦前の国家主義・軍国主義の頃のもので、道徳は戦後。なんか民主主義っぽいだろ?」
なぁ~んて、思ってません?
そりゃ、修身というのが国家を意識していたこと自体は間違いない。
けど、意識しただけで「修身は国家主義だ!」、なんて言うのは短絡的です。
ましてや「軍国主義」なんていうと、
「自衛隊が国防軍に名称変更すると、軍国主義だ、右傾化だ!」
なんていうのと同じ。
それはもう、一言で言うと
「アタマ、タイジョブカ?」
、です。
そんなこと言ってたら、隣の「人民解放軍」なんて疾っくに人民は解放されて半世紀以上経ってるんです、何で用事もないのに存在してるんですか。目標は達成したんだから、解散すりゃいいでしょう。
さもなくば「シナ共産党擁護軍」と改称する、とか。
いきなり脱線しましたが、「修身」、つまり「身を修める」というのは社会にあってこそ、社会の中にいようとすればこそ、必要なことです。
社会に適合し、社会を善導するためにこそ「身を修める」という意味があります。
そして、実は「道徳」も同じです。
「道徳」の「道」は、言わずと知れた「道」。これは「歩き方」、転じて「生き方」の意味です。柔道、剣道、などの「武道」も「茶道」「華道」も同じ。
ということは「道徳」も、これまた「(社会での)徳のある生き方」という意味になる。
修身は「社会のために、身を修めること」。
道徳は「社会の中での徳のある生き方」、です。
何だ、まるで同じ、じゃないですか。
それどころか修身、道徳は並立するものではなく、修身の中に道徳が含まれているとも言える。
「社会のために身を修める」というのは、一個人の積極的な「社会への関わり方」です。
対して、「社会の中で徳のある生き方をする」というのは、「身を修めた」上での、「徳のある生き方」だから、もう一段上、と言えるでしょうか。
それが「修身教育」、「道徳教育」となると、些か様子が変わってくる。
「修身教育」というと、急に歴史上の偉人の言動や、名言などを覚え込まされ、「道徳教育」の方はみんなで話し合ってより良い日常生活を送れるようにする、といったイメージになってくる。
何か変ですよね。何が変なんだろう。
要は修身と道徳は対立するものではないのに、恰も本来的に対立するものなのだ、という捉え方で教えられてきた、或いはそう思い込まされてきた、ということで、その理不尽さに違和感を持つのかもしれません。
「修身は押し付けられるばかりだ。偉人のマネをしろと強制されているみたいだ」
「道徳はみんなでより良い社会をつくろうと考えさせられる時間だった」
こんなイメージを持っている人は、だから、それ、ただの「思い込み」ということになります。学校教育の成果、です。
書いて来たように、本来、修身と道徳は同心円のものです。
戦後(というより敗戦後)、「修身」が否定されることに象徴される近代日本の国家体制の否定、替わりに敗戦後の占領統治体制(戦後レジーム、又はYP体制です)を是とする社会の創設に「道徳教育」は絡んでいる、ということです。
そのことを知らず、「社会」について考えたこともない者が、
「偉人のマネをしろ、と強制されていたのが修身教育だったんだろう」
と想像するのも無理はない、と思います。
社会に育てられ、これから社会に参加することの意味よりも、己が権利の主張「言わなきゃ分からないよ!」という事ばかりを教えられてきているのですから。
社会に適合し、社会を善導するために「身を修める」わけですから、「修身」と称するのは当然のことであって、そこでは、反社会的な言動は「善」ではないと教えられます。
となれば、それは「手本」を見て倣おう(見倣う)とするのが一般的になるのも当然のことでしょう。
「強制」と感じるのは、大人が今の自分を肯定しているからこそ、です。
「今の自分は十分に社会に参加できている。それなのに『それではいけない。直せ』という。自分のどこが間違ってるんだ。そんな『無理強い(強制)』なんか受け入れられるか!」
それに対して、未だ己の把握もできず、従って十分に己を肯定することのできてないのが子供です。だから社会の仕組みも、社会に参加する、ということも全く分かってない。
そんな子供が、「手本」とされるものを倣う(習う)のは当然のことではないですか。
そこで社会の仕組みを学び、参加することの意味を習っていく、己の把握もするようになるのは当たり前のことではないですか。
大人が
「平仮名を覚えることを強制された!ひどい!」
、なんて誰も言わないし、言っても、
「何、言ってんだ?」
、という目で見られるだけです。
でも、子供が同じことを言ったら、手を換え、品を換え、して
「世の中に出ていくとき、字も書けないようなことじゃ・・・」
、と懇懇と説くでしょう?
(後半へ続く)
「何となく分かっているような気がしていたんだけど」
、という人、いません?
「修身は戦前の国家主義・軍国主義の頃のもので、道徳は戦後。なんか民主主義っぽいだろ?」
なぁ~んて、思ってません?
そりゃ、修身というのが国家を意識していたこと自体は間違いない。
けど、意識しただけで「修身は国家主義だ!」、なんて言うのは短絡的です。
ましてや「軍国主義」なんていうと、
「自衛隊が国防軍に名称変更すると、軍国主義だ、右傾化だ!」
なんていうのと同じ。
それはもう、一言で言うと
「アタマ、タイジョブカ?」
、です。
そんなこと言ってたら、隣の「人民解放軍」なんて疾っくに人民は解放されて半世紀以上経ってるんです、何で用事もないのに存在してるんですか。目標は達成したんだから、解散すりゃいいでしょう。
さもなくば「シナ共産党擁護軍」と改称する、とか。
いきなり脱線しましたが、「修身」、つまり「身を修める」というのは社会にあってこそ、社会の中にいようとすればこそ、必要なことです。
社会に適合し、社会を善導するためにこそ「身を修める」という意味があります。
そして、実は「道徳」も同じです。
「道徳」の「道」は、言わずと知れた「道」。これは「歩き方」、転じて「生き方」の意味です。柔道、剣道、などの「武道」も「茶道」「華道」も同じ。
ということは「道徳」も、これまた「(社会での)徳のある生き方」という意味になる。
修身は「社会のために、身を修めること」。
道徳は「社会の中での徳のある生き方」、です。
何だ、まるで同じ、じゃないですか。
それどころか修身、道徳は並立するものではなく、修身の中に道徳が含まれているとも言える。
「社会のために身を修める」というのは、一個人の積極的な「社会への関わり方」です。
対して、「社会の中で徳のある生き方をする」というのは、「身を修めた」上での、「徳のある生き方」だから、もう一段上、と言えるでしょうか。
それが「修身教育」、「道徳教育」となると、些か様子が変わってくる。
「修身教育」というと、急に歴史上の偉人の言動や、名言などを覚え込まされ、「道徳教育」の方はみんなで話し合ってより良い日常生活を送れるようにする、といったイメージになってくる。
何か変ですよね。何が変なんだろう。
要は修身と道徳は対立するものではないのに、恰も本来的に対立するものなのだ、という捉え方で教えられてきた、或いはそう思い込まされてきた、ということで、その理不尽さに違和感を持つのかもしれません。
「修身は押し付けられるばかりだ。偉人のマネをしろと強制されているみたいだ」
「道徳はみんなでより良い社会をつくろうと考えさせられる時間だった」
こんなイメージを持っている人は、だから、それ、ただの「思い込み」ということになります。学校教育の成果、です。
書いて来たように、本来、修身と道徳は同心円のものです。
戦後(というより敗戦後)、「修身」が否定されることに象徴される近代日本の国家体制の否定、替わりに敗戦後の占領統治体制(戦後レジーム、又はYP体制です)を是とする社会の創設に「道徳教育」は絡んでいる、ということです。
そのことを知らず、「社会」について考えたこともない者が、
「偉人のマネをしろ、と強制されていたのが修身教育だったんだろう」
と想像するのも無理はない、と思います。
社会に育てられ、これから社会に参加することの意味よりも、己が権利の主張「言わなきゃ分からないよ!」という事ばかりを教えられてきているのですから。
社会に適合し、社会を善導するために「身を修める」わけですから、「修身」と称するのは当然のことであって、そこでは、反社会的な言動は「善」ではないと教えられます。
となれば、それは「手本」を見て倣おう(見倣う)とするのが一般的になるのも当然のことでしょう。
「強制」と感じるのは、大人が今の自分を肯定しているからこそ、です。
「今の自分は十分に社会に参加できている。それなのに『それではいけない。直せ』という。自分のどこが間違ってるんだ。そんな『無理強い(強制)』なんか受け入れられるか!」
それに対して、未だ己の把握もできず、従って十分に己を肯定することのできてないのが子供です。だから社会の仕組みも、社会に参加する、ということも全く分かってない。
そんな子供が、「手本」とされるものを倣う(習う)のは当然のことではないですか。
そこで社会の仕組みを学び、参加することの意味を習っていく、己の把握もするようになるのは当たり前のことではないですか。
大人が
「平仮名を覚えることを強制された!ひどい!」
、なんて誰も言わないし、言っても、
「何、言ってんだ?」
、という目で見られるだけです。
でも、子供が同じことを言ったら、手を換え、品を換え、して
「世の中に出ていくとき、字も書けないようなことじゃ・・・」
、と懇懇と説くでしょう?
(後半へ続く)
2013.09/14