CubとSRと

ただの日記

とにかく生きる

2021年05月21日 | 心の持ち様
「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和三年(2021)5月20日(木曜日)弐
  通巻第6916号   
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 書評 
 
 政治とは命を賭けて戦う気概がなくてはならない
  あまったれ現代人に告ぐ 狂瀾怒涛の時代の教訓は何か?

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近藤伸二『澎明敏  蒋介石と闘った台湾人』(白水社)
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 台湾独立運動のカリスマ的存在だった人物がいる。
付け髭にカツラ、変装して日本人パスポートを借り受け、日本人になりすまし、海外へ脱出した。変装の練習を何回もした。写真も何枚も撮影した。1970年頃のパスポートは写真の張り替えが巧妙にやれば可能だった。
 亡命劇には周到な準備が必要であり、まず受け入れ先、つぎに資金。その兵站を支える組織である。
 さいわいスウェーデンの関係者の努力で、この台湾独立運動のカリスマの亡命先は決まった。資金は米国の教会関係者が集めた。実践となると、支援者らはパスポートの割り印の偽造から、刻印の方法までを練習した。
 裏方のひとりは薩摩男児の宗像隆幸氏で、明治大学在学中の下宿のとなりが許世偕(のちの台湾駐日大使)だった。偶然の出会い、日本での『台湾青年』は、独立運動の地下組織だった。
義侠心に篤い宗像は台湾独立運動の日本人支援組織運動にのめり込んだ。
 澎明敏を台湾から脱出させるにはどうしたら良いか。亡命準備には国際的な連携も必要だった。このあたりは宗像の『台湾独立運動私記』(文藝春秋)に詳しい。
 宗像が選んだのは海外勤務から帰国したばかりの友人、阿部賢一だった。阿部は義侠心から、この危険な仕事を二つ返事で引き受け、台北へ飛んだ。
阿部が澎とあったのは当時米国副大統領アグニューの台湾訪問で、町が騒然としていた瞬間を狙い、日本航空台北支店のロビィだったという。この話は初めて聞いた。
澎明敏は国民党から目を付けられていた。その厳重な監視の目を誤魔化し、みごとに台湾から脱出し、香港からバンコクへ、そして北欧のスウェーデンへ亡命。段取りをとってくれた日本の友人・宗像隆幸にストックホルムから電報を打った。
電報はたった一言。「SUCCESS」。


▲まるでスパイ映画をみているようなサスペンス

 どんなスパイ小説より、現実は奇妙で奇跡的で、波瀾万丈。その詳細は、この本で読んでいただいた方が良いだろう。
 澎はその後、アメリカへ渡り大学教授の職を得て、ながい亡命生活、22年後に帰国し、民主化された台湾総統選挙に挑んだ。
 カリスマ的存在だった彼は、1996年の総統選挙で、李登輝をあいてに善戦し、25%を集票した。
 評者(宮崎)はこの1996年の総統選でも、澎を現場で見ているし、その後は何回も台北でお目にかかった。
十数年前には氏の主催するシンクタンクから台湾に招かれ、首相官邸にもインタビューにいくと、蘇貞昌首相との会話の通訳をしてくれたのも膨氏だった。
 亡命劇にもどると、日本で段取りをつけたのは宗像隆幸と独立連盟の許世偕、黄昭堂らだが、じつは宗像も回想録で「K」としか名前を明かさなかった黒子(黒衣?)がいた。評者も、したがって、この黒子の正体は、本書を読むまで知らなかった。
 宗像隆幸氏は、卒業後腰掛けで、石原萌記主宰の『自由』編集部にいたことがあり、最初にもらった名刺は「宋重陽」とシナ人風だった。
てっきり中国人と思った。
パスポートを貸した宗像の友人の阿部賢一氏は、何年か前に李登輝友の会のパーテェだったかで会った。「あぁ、なるほど、この人なら冒険物語の脇役を平然と務めるような、侍である」とすぐ気がついた。
その阿部氏もはや80歳を超えたが健在、山形県酒田市に隠居生活をおくる。宗像氏は、二年前に旅立った。
著者の近藤氏は、これらの関係者の殆どを三年掛けて訪ね、インタビューして歩いた。
それだから本書は秘話満載の労作であり、多くの人に読んで欲しい本である。
かくして1970年、世界をあっと言わせる西側への亡命劇には少数の日本人と在日台湾人が深くかかわっていた事実が、半世紀を経て静かに淡々と語られた。
                (註 澎明敏の「澎」は「さんずい」を取る)
       ◎◎◎ 
コメント
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