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ただの日記

重光葵(しげみつ まもる)

2023年06月05日 | 心の持ち様
書評 BOOKREVIEW
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 あの戦争は何であったか、和平実現に粉骨砕身した外交ベテランの回想
   東京裁判で起訴され巣鴨プリズンに入れられた「被告」たちの心情と日常

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重光葵『巣鴨日記 獄中から見た東京裁判の舞台裏』(ハート出版)
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 重光葵のことを知らない人が多い。
 大分県出身。杵築に育った。東大卒後、外交官として獅子奮迅の活躍をしたことは語り草である。重光はミズーリ号における不名誉な降伏文書調印の全権。随員が加瀬俊一だったことは教科書にも写真いりで出てくる。
 本書は不当にも東京裁判で、ソ連の猛烈な横やりで戦犯に擬され、四年数ヶ月を刑務所で送った重光が、獄中で認めた日記である。釈放後、『文藝春秋』に連載され、文春から単行本となった。
学生時代の評者(宮崎)、たしかに読んで記憶があるが、殆ど忘れていた。今回は新仮名遣いでの復活である。
 鮮烈な記憶があったのは重光が獄中にあっても、思索に耽り歌を読み、雑誌『世界』が読めた。そして漱石やチェーホフを読めた。松井大将の獄中で堂々たる観音経の読経が聞こえたこと。
巣鴨プリズンにおける待遇が冷戦後のソ連の驕慢、東欧諸国がつぎつぎと赤化していった国際情勢変化により、米軍兵や裁判官らの態度もアメリカの姿勢も徐々に変貌してゆく過程が日記の文章のなかでも読み取れる。
 家族から差し入れや極貧を強いられた戦後の暮らし、しかし周囲はもちろんプリズンの係官すら重光の無罪を信じていたという。

 ▲戦後の米ソ対立と日本の居場所がかわることを予測していた

 本書には所内における東条や大川周明、加屋興宣の珍しい写真が挿入されている。服装や弁当の貧弱さから、その待遇の雰囲気も伝わってくる。
 終戦後、それも昭和二十一年の天長節に突如、GHQのジープが重光を「迎え」にきた。
 ほぼ一年後の昭和二十二年四月五日の日記は「マッカーサーが日本とは速やかに平和条約を締結して軍隊を引き上げなければならぬとの、新聞記者会談をしてから、米国側一般の態度も変わった様だ。米国人は昨今対ソ関係に気を奪われている。昨日の味方は今日の敵たることが明瞭に判ったのだ。米国人の日本管理方法は急角度に改善されなければならぬ。米国は必ず日本を必要とする。日本は米国を離れては生存できない」
 預言的な見通しを獄中でなすほどに炯々たる観察である。
 同年五月十七日。重光葵はこう書いた。
 「米ソの妥協は可能であるかどうか。米デモクラシーとソ連共産主義はとは水と油の如く妥協の余地が有り様がない。問題は米国の国内情勢から見て、再び孤立的勢力が強くなって米国の政策が消極的となりはせぬか、または国内共産勢力に動かされて対ソ妥協派が台頭せぬか」
 現在のバイデン政権も同じように国内の極左の暗躍で政策を間違えている。
 それはそれとして東京裁判は国際法上も成り立たない裁判だという認識を重光は抱いていた。
 同年七月一日。重光はこう書いている。
 「日本は戦時の空襲で全国に亘り都市が破壊され、何も戦争に関係の無い女子供が幾十万も殺戮されている。広島長崎における原子爆弾は一挙に数十万人を最も残酷に死傷せしめている。この残虐の後の何の復讐があるのか」
 政界復帰後改進党総裁、鳩山内閣で外相にカムバック、日本の国連復帰を果たし、自ら国連に日章旗を掲揚した。これほどの愛国的外交官がいたのだ。
 重光葵の名前をいま思い出す人はよほど近代史に詳しい人だろう。



 「宮崎正弘の国際情勢解題」 
    令和五年(2023)6月5日(月曜日)
       通巻第7781号より

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