社報「靖國」に掲載された早坂隆 著「昭和史の声」について。
著者自身による紹介文、今回はその転載の続き、最終回(3回目)です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
イスラエルでは「満州国でユダヤ難民へのビザ発給に尽力」した陸軍中将・樋口季一郎について取材した。杉原千畝の「命のビザ」に隠れた「もう一つのユダヤ難民救出劇」を主導した樋口について、戦時中、大連で暮らし、「ヒグチ・ビザ」で救出された多くの難民の姿を目撃したクララ・シュバルツベルグさんはこう語ってくれた。
「ヒグチは偉大な人物です。私たちは心から感謝しています。彼の存在を決して忘れません。日本人はヒグチのことをあまり知らないのですか?それは本当ですか?日本人は学校で何を習っているのですか?」
モンゴルのウランバートル郊外には、シベリア抑留の影に隠れてなかなか語られることのない「モンゴル抑留」の慰霊碑が建立されている。その管理人であるバーダイ・ネルグィさんはこんな話を今に伝える。
「(抑留者用の)病院で亡くなった日本人の遺体は、長くこの地に埋葬されたままになっていましたが、一九九四年から一九九七年にかけて、土を掘り起こして遺骨を収集し、日本へ還す事業が行われました。土を掘ると、次から次へと骨が出てきました。少しの骨も残さないように、作業は丁寧に行われました。目の細かな篩(ふるい)につちをかけて、少しの欠片も見逃さないようにやるのです。一体が揃ったらその奥、というように順々に掘り進めました。一人でも帰れない方がいたら可哀想だという思いでした」
今では取材でお世話になった元兵士の方々の多くが鬼籍に入っている。時には一緒に食事をしたり、お酒を飲みながら、様々な「昭和史」について教えていただいた経験は、私にとっては忘れがたい思い出であり、何よりの財産でもある。
終戦から七十五年以上が経ち、あの戦争に関する記憶の風化は免れることができない。戦争体験者の方々への取材は、今や最後の機会の時期を迎えている。
現状、コロナ禍で取材が制限されるという逆境にも見舞われているが、一つでも多くの「生の声」を活字にして残しておきたいと切に思っている。
「昭和史の声」を今を生きる人々に正確に届けられるよう、微力ながら今後も尽くしていきたい。
(転載了)
社報「靖國」 5月 令和3年 第790号 より
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
社報の紙面には早坂氏の写真も載っていて、「立派な仕事をされているなあ。どこかの詐話師やら実地に取材にも行かないで嘘を書きまくったノーベル賞作家や、名誉を傷つけられたと騒いでいた〇日新聞記者とは大違い」なんて思いながら見ていたら、下にプロフィールも載っていた。
この実直な大人の顔つきの持ち主が何とまだ四十半ば過ぎ!
我が顔の軽薄さを恥ずかしく思う。二十歳も年上なんだけど・・・。
気を取り直して。
あの戦争を我々の世代は「第二次世界大戦」と習った。そうでなければ「太平洋戦争」。
しかし、日本は特殊な例を除きヨーロッパまで攻めて行ったわけではない。戦いはアジア諸国を植民地としていた国々の駐留軍(又は本国からの援軍)とのものであるから、「第二次世界大戦」と一括りにされるのは大雑把に過ぎる。中国(支那)との戦いだって、別に攻め入ったわけではない。だから、「日中戦争」というのだって無理がある。
それじゃあ「太平洋戦争」は?ということになるが、じゃ、逆に聞くけど、なんで「日米戦争」と言わないのか。米国以外の太平洋上の島々を植民地にしていた国々は太平洋上で(日本と)戦ったのか?
ということで日本では「大東亜戦争」と称した。植民地支配からの解放を目指したのだから、間違ってはいない。
けど、それは「八紘一宇。日本が世界征服を目論んだ名称だ」と。「大東亜戦争」と言えば、右翼だ、ヤクザだ、暴力団と同じだと決めつけられそうな勢いだった。
平成になって現上皇陛下が「先の大戦」と言われるようになった。
気が付いたらマスメディアも揃って「先の大戦」と言うようになり、「第二次大戦」なんて、ましてや「太平洋戦争」なんて言葉は滅多に聞けなくなった。
それでもまだ「大東亜戦争」は、右翼だ、ヤクザだ、暴力団だという認識のままなのだろうか。
それとも「大東亜戦争?何それ」、となってしまったのだろうか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます