早坂隆 著「昭和史の声」について、著者自身による紹介文が社報「靖國」に掲載されました。今回もその転載の続き、2回目です。
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ベニヤ製の小型モーターボートに二百五十キロ爆弾を搭載した水上特攻兵器「震洋」の搭乗員だった村上孝道さんは、特攻を志願した時の心情を次のように表現した。
「戦況が非常に悪いということは上官からも聞いていましたし、私も正直に言えば日本が勝てるとは思っていませんでした。しかし、少しでも戦況を挽回し、条件の良い講和ができるようにと考えていました。そのために、その新兵器で戦おうと。とにかく、家族を護りたいという一心でしたね」
特殊な潜水服に身を包んで海中に潜み、敵の船艇の船底を「棒機雷」で下から突き上げる人間機雷「伏龍隊」の隊員だった片山惣次郎さんは、こんな心情を吐露してくれた。
「今から思えば『子供だまし』のような作戦ですがね。しかし、やっていた本人たちは、ただただ一途。本当に一途でしたね。今の人たちには笑われてしまうかもしれませんが」
片山さんは当時の心境について、ゆっくりと言葉を選びながらこう話した。
「必死なもの。高潔なもの。隊員たちの心中には、そんなものもあったでしょうか。戦争そのものは悪い。当然のことです。しかし、あの潜水服を着て、実際に海に潜った人たちは皆『利他行』でやっていたんですよ」
「利他行」とは、大乗仏教の言葉で「他人に対する善きはからい」「己の救済よりも、他者を助ける行い」といった意味を表す。
取材は海外にも及んだ。パラオ本島在住のマリア・アサヌマさんは、日本統治時代の記憶を次のように振り返ってくれた。
「当時は日本人がいっぱいいてね。豊かだったよ。コロールにはお店がいっぱいあって。商店街ね。ずっと屋根があったから、雨が降っても傘がいらない。スコールがきても大丈夫。大きな公園があったり、噴水があったり。よく遊んだよ。日本人はよくやってくれたから、栄えていましたね。学校は別でも町では日本人と一緒。日本人の友達、いっぱいいたよ。日本時代は良い思い出ですよ。本当に」
神風特別攻撃隊の発祥の地であるフィリピンのマバラカット飛行場の跡地に慰霊碑を建立したダニエル・H・ディソンさんは、日本兵との思い出をこう回想した。
「初めは日本軍と言えば恐怖の対象でした。と言うのも、この街にいた中国人が『日本軍は残虐だ』という話を繰り返し吹聴していたからです。しかし、実際にやってきた日本兵たちは、立派な戦士たちでした。そんな日本兵たちが戦争末期、『体当たり攻撃』を断行していたことを、私は戦後になってから知りました。そして、深い畏敬の念を覚えたのです」
(続く)
社報「靖國」 5月 令和3年 第790号 より
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