CubとSRと

ただの日記

「昭和史の声」著者の思い(上)

2021年05月28日 | 心の持ち様
 ずいぶん遅くなりましたが、社報「靖國」5月号に載せられていた早坂隆氏の文を三度に分けて転載させていただこうと思います。
 南京事件、ペリリュー島、神風特別攻撃隊、ユダヤ難民へのビザ発給、モンゴル抑留・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 戦争体験者の方々への取材を始めて、はや二十年近くになる。多くの方々から託された貴重な証言を『昭和史の声』という一冊にまとめることができたのは、これまで取材に応じてくれたすべての方々のおかげであるとしか言いようがない。

 昭和十二(一九三七)年十二月の南京戦に参加した経験を持つ元中支那派遣軍野戦電信第一中隊・島田親男さんは、南京市内の様子をこう語ってくれた。
 「城内(市内)には人の姿もなく、静まり返っていて、非常に不気味な様子でした。『がらん』とした感じです。結局、銀行だった建物の中に第六師団の司令部が設置されたのですが、私はそこで通信業務を行うことになりました。南京に入って一週間くらいは、私も気が立っていたというか、興奮していたのでしょうね。夜もなかなか寝付けなかったのを覚えています。しかし、南京の市民は皆、安全地帯にとっくに逃げていますしね。城内では後に言われるような死体の山など、私は見たことがありません」
 島田さんは涙ながらにこう訴えかけた。
 「戦闘で亡くなった支那兵が多くいたのは事実です。それは本当に悲惨なことでした。それに関しましては、私も犠牲者の方々への鎮魂の思いをずっと抱き続けております。しかし、後に言われるような市民への三十万人だのという大虐殺なんて、私はしてもいないし、見てもいません。三十万人と言えば広島と長崎の原爆被害者の数よりも多い。当時の私たちにそんな攻撃力があったとは到底思えません。事実は事実として、正確に語り継いでほしい。なぜ戦後の日本人は中国人の言うことばかり信じて、私たちの言葉には耳を傾けてくれないのでしょうか」

 昭和十九(一九四四)年九月十五日から始まったパラオ・ペリリュー島の激戦を戦い抜いた陸軍歩兵第二連隊・永井敬司さんは、戦場の光景を次のように言い表した。
 「怪我を負った兵士が『ウーン』と唸りながら、戦友に『早く殺してくれ』と頼む。戦友は『わかった』ということで、軍刀で突き刺す。それはもうひどい状況でした。腕や足を吹っ飛ばされている兵士もいましたし、頭部がなくなっている死体もありました」
 永井さんに「戦いの動機」について尋ねると、老紳士は淡々とこう話してくれた。
 「日本を護るためですよ。内地で暮らす家族や女性、子供を護るため。それ以外にある筈がないじゃないですか。私たちは『太平洋の防波堤』となるつもりでした。そのために自分の命を投げ出そうと。そんな思いで懸命に戦ったのです」

 (続く)

 
 


社報「靖國」 5月 令和3年 第790号 より
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 再掲 「波上宮(なみのうえ... | トップ | 「昭和史の声」著者の思い(中) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

心の持ち様」カテゴリの最新記事