CubとSRと

ただの日記

妙な夢を見た

2020年11月08日 | 日々の暮らし
 10月16日

 今朝は何だか妙な夢を見て目が覚めた。
 首筋を掴まれて引っ張られたというか、一瞬だけど引き摺られるような感じがあって、どうしたことか、少し寝汗もかいていた。風邪をひいたのかもしれない。いや、もしかしてコロナウィルス?だとしたら、一体いつ感染した?

 何しろ潜伏期間(自覚症状が出るまで)が2週間にもなることがあるという。そのくせ、潜伏期間中に伝染するということもあるらしいし。
 当人の自覚がない中に被害は知れず広がっているかもしれない、なんて、おそらくは史上最低の、道義を全くわきまえないウィルスだ。(当たり前、か)
 で、治ったとしても数か月後にまた罹患したりすることもある(らしい)。 その場合、大方は軽いらしいが時に重症化する例もある、とか。
 ホントに最っ低の奴だ。

 ・・・・・と罵り倒しつつ、体調を見る。
 鼻も片方詰まっているし、脈も少し早い。
 が、熱っぽさはないし、味覚に違和感もない。
 起き上がってみると、鼻詰まりだけで、脈は平常に戻る。 

 何だか、蓋を開けてみたら全く勝てそうにない相手に素手で立ち向かわなければならない、それもこちらは僅か数名のチームで。
 それにメンバーは決して強そうではないながら、とにかく若い。体力は普通にありそうな感じ。その中に元々体力はない上に60も半ばで、間違いなく足手まといにしかならないような奴は自分一人。
 いや、体力云々は関係ない、他のメンバーも若いだけで、敵は決して勝てるような相手ではない。瞬殺ならまだしも、全員間違いなく嬲り殺しになる。
 こんな結果の見えた戦いを何故買うんだ。

 そう思いながら目が覚めた。「刀、持ってたら勝てるかもしれないけど」、とも思う。
 すっかり目が覚めてしまうと、「やっぱり20年間、稽古してないのに、遣えんだろう」、とそんなことを思った自分が恥ずかしくなる。

 昨日は掃除機もかけたし、この家に入って25年以上になるが、初めて便器の外側を拭いたし、何より家の裏の、大きく伸びて隣家の領空侵犯をしている木の枝三本を切り、細切れにしてゴミ袋に収めたし、と珍しく色々と仕事をしているのだ。首根っこ掴まれて引き摺りまわされる謂れはない。

 変な夢を見たのは、単に昨晩、酒を三合ほど飲んだからか。
 飲み過ぎたという後ろめたさから?
 悪酔いするほど飲んでりゃ、そんな夢見る暇なかっただろうけど。
 うん、飲み方が足りなかったんだな、きっと。
 

 
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zhonguo? china?

2020年11月07日 | 重箱の隅
 「中国かシナか」(2010・10・8の日記)より

  御存知の通り、「中国」と言っていますが、本当は「中華人民共和国」で、これは「尊称」です。家来(属国)でなければ、遣うべき言葉ではありません。
 それを敢えて「尊称」で以って呼ぶ、ということは、日本が彼の国の「属国」である、ということです。
 属国でしたか?属国であったこと、ありましたか?

 連合国に占領されていた敗戦からの七年間、戦勝国となった支那は、日本に「これから中国と呼ぶように」と命じたのだそうです。
 生き残るために、各新聞社はそれを承諾しました。

 この時の「支那」は、中華民国です。
 日本だけは、以降「中国」と呼ぶようになりました。日本以外の国は国ごとの発音で「シナ」だけです。
 別に、日本が弱味を握られていたとか何とかではない。ただ、敗戦国だった。

 「豊葦原中津国」、豊かに葦の生い茂る中心の国。
 「中つ国」、つまり「中国」です。「華」とは言ってませんが。
 日本だってこう言って来ました。
 勿論、だからと言って我が国の先祖は他国に対して「中国と呼べ」、なんて言ったこと、ありませんよ。

 我々が約束したのは、この「中華民国」。敗戦の翌年、戦勝国である中華民国の蒋介石は我々に命令した。
 けれど、中華人民共和国に対しては、「中国」と言ったり、「中華」という言葉を使わなければならない、という義理も言われもない。
 大体、そうしてくれ、と頼まれたこともない。

 日本だけです、「中国」、なんて言ってるのは。繰り返しますが、そんな義理はない。
 他国を見て下さい。みんな「チャイナ」、じゃないですか。
 日本式に発音すれば、「シナ」、です。
 シナの綴りは「china」。英語読みならチャイナ。普通に読めばチナ。(「チノパン」と言っていた綿のズボンの「チノ」、ってシナのことだそうです)

 お茶がヨーロッパで、ティー、だなんて、「cha」が「tea」と書かれるからでしょう?
 teaは「ティー」じゃなくって「ティア」、つまり「cha」です。
 
 それに、「支那」という言葉に差別的な意味合いなんて、本来かけらもない。
 もし、あるとしたら「支那は~」、ではなく「支那人は~」なんです。

 そして、それは、日本人が「ジャップ」と蔑称されたのとは違って、彼ら個々のシナ人のあくどさ、図々しさに対して言われるようになったものです。

 それが証拠に海舟などは、李鴻章等のあちらの大物政治家にはとても適わない、と言っているし、「シナの大尽みたいだ」と言われるのと、日本の「お大尽」とは、比べものにならないでしょう。全くあちらが上、です。
 倭寇の初めはシナの文物の名品を欲しがった日本人商人に、偽物を売りつけたことも原因の一つと習った覚えがありますよ。高校生の時に。日本人はシナという国の学問や物品を、また偉人を大変に尊敬していたんです。

 「シナ」の意味合いを、日本に対してだけでも落としてしまったのは、皮肉にも、他ならぬ彼ら「支那人」、なんです。


 嫌ならこれからでも遅くはない。アメリカに対しても、ヨーロッパに対しても、言えばいいんです。

 「これからは我々の国をチュンゴーzhonguo中国、と呼んでくれ。」
 「であるから、我々はチャイニーズ、ではない。チャンコロzhonguoren中国人である」って。
 「我が国はチュンゴー。我々はチャンコロ」

 ちょっと毒のある発言だったでしょうか。
 でも、そういうことですよ。
 「シナ」という言葉を蔑称だ、と思っている人は、何も知らないで、そう言っているのです。

 差別は無知から起こる、と言われますが、「シナ」という言葉を「蔑称」とすることは無知の証し。これが、実は差別の始まりなんです。


 追記
 この日記を挙げた際にいただいたコメントから、言葉不足な部分について思ったことや気づいたことを、少し付け足してみます。

 「シナと発言すると周りの視線が微妙です。」
 そうですよね。右翼だとか、狭小な視野の国粋主義者だ、とか言われます。その批判自体がずれてるんですが、こうやって整理してみると、単に「事情を知らなかった」ことによる全く根拠のない先入観からの批判なんだと言うことが分かります。

 「『シナ』は蔑称ではない」、は私が大学生(40年ほど前)の頃に習ったことです。その延長線で「中国と呼ぶべきではない」、ということも教わりました。
 ただの怠け者だったから、それまでは「へえ~、そうなんだ」で終わってしまっていて、「何でシナと言っちゃいけないのか」なんて考えようとはしなかった。
 だから、「中国と呼ぶべきではない」、と習わなかったら、いつの間にか私も
 「『周りの視線が微妙』」だからやめよう。雰囲気を読まなきゃ。」
 ってなってた可能性大、です。
 国民全体が「そういえば変だよね」と言い始めたらそれで簡単に変わってしまうことなんですが、考えることを拒否する頭になっているんじゃないでしょうか。 

 
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シナ

2020年11月06日 | 重箱の隅
 わたなべ りやうじらう のメイル・マガジン
               頂門の一針 5582号
     2020(令和2年)年 11月2日(月)から

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  
なぜ日本では「中国」という呼称
━━━━━━━━━━━━━━━
           和田憲治

▼なぜ日本では「中国」という呼称・表現を(わざわざ)使うのか?

 本来、「支那」と呼ぶべき地域・エリアのことを日本ではなぜそう呼称せずにわざわざ「中国」とするのか?
「中国」とは「中華人民共和国」の略称であって、地域的概念としての名称は「支那(シナ)」です。

 これは、第二次大戦時に、日本が米国に敗北したことに伴ってある意味、棚ぼたで勝利した、中華民国の蒋介石が日本に対して、「支那」と呼ばず「中華民国」または、略称を「中国」と呼ぶよう要求し、それをそのまま日本側が飲んでしまった結果です。ここから「中国」呼称のネジレが始まりました。

 「ちょっと言ってみたら、俺の言うこと丸呑みしてくれたよ、バカじゃねーの、日本!チョロいな!(笑)」と、蒋介石は思ったに違いない。これは、それくらい「間抜けな」話なのです。

 その後、中華民国の蒋介石は中国共産党の毛沢東に敗北し、その中国共産党が1949に中華人民共和国を建国しました。
 そして、新たに建国された共産独裁国のことも、日本ではそのまま「中国」となってしまいました。

 中華民国以前に大陸に存在していた国家は「清」であり、日本人はその地域のことを「シナ」と呼んでおり、そこに住む多数の民族まとめて「シナ人」として認識していました。
 遣唐使時代は、「唐土(もろこし)」と呼称したり、来航する中国商人を「唐人(からびと、とうじん)」などと呼んでいましたが、近世以降はシナ(支那)という呼び名が普及していたのです。

 「シナ」という言葉は、中国古代の王朝の一つ「秦(シン)」が語源と言われ、英語の「チャイナ」もスペイン語の「チーノ」もフランス語の「シーヌ」も同様です。漢字で「支那」と書くとこれまた蔑称だという人がいますが、音として、カタカナ表記の「シナ」ならば諸外国の呼び方の音に準じているわけですから、本来、これは「差別語」などではありません。
 そもそも、地域的概念でいえば東シナ海や南シナ海で使われているのも「シナ」です。歴史的に使ってきた言葉であり、世界標準で通用しているの呼称なのに、なぜか日本人はそれを放棄してしまいました。

 ここで、「中国」という言葉が危険だ…という話をしてみます。
 江戸時代前期の儒学者である山鹿素行という人物をご存知の方は多いと思います。彼は、自著『中朝事実』の中で、中国(支那王朝)は「外朝」であり、日本人にとっては、逆にむしろ日本こそが「中国(なかつくに)」・「中華」である、と主張しています。

「"中国"という言葉」は、自国を指したり、自国が「天下の中心」であることを示す言葉なので、日本人が支那大陸の国家を「中国」と呼ぶということは、
日本人が、自分から自国を「外朝」と認識して、まるで、日本が支那王朝に対する「朝貢国」であるかのような立場に置くもの…と言えるのです。

 更に言えば、巷では「中国4000年の歴史」などという表現がありますが、有史以来、支那大陸の歴史・王朝史を紐解くと、実際のところは、純粋に漢民族による王朝よりも、異民族によって漢民族が支配されていた国家がほとんどでした。
 その漢民族自体も、そのような異民族との戦争、征服・支配、亡命、移動、迫害を繰り返して、混血が進んだ結果が現在の「漢族」です。
 連綿と続いてきたのは、虐殺の歴史くらいで本当は「中国」の歴史などというものではありません。

 『目に見えぬ侵略』のクライブ・ハミルトン教授はじめ、欧米含む世界では、もちろん普通に「チャイナ」と称し、表記しているわけですから、そこにネジレはありません。この呼称問題は日本だけが抱えるものです。

 石原慎太郎元都知事や、故・中嶋嶺雄東京外語大学名誉教授、故・渡部昇一上智大学名誉教授などは、中国ではなく「シナ」と呼ばねば説明がつかない、
と、一貫して主張していましたが、肝腎の政治家、外務省の役人、その他多くの学者・言論人なども本来「シナ」と呼ぶべき文脈でも「中国」と呼び、
自らも気付かないうちに性根から侵略されてしまっているのです。

 紀元前からのシナ大陸での歴史を語る場合に、「シナ文明」という呼び方ではなく、「中国文明」と、ごく当たり前の如く日本人が自分から語ってしまっている時点で、すでに中国(中華民国、中華人民共和国)側のプロパガンダに見事にやられてしまっているのです。
「日本という国は、所詮、大中華の外れの、取るに足らない弱小国に過ぎない」と日本人自身の思考が既にそうなってしまっているのです。

 ここで日本人が目覚め・自覚すべきなのは、あのエリアを称する時の地域的概念は「シナ」か英語音に準じて「チャイナ」とすべきで、「中国」と呼称する際には、あくまでも、「中華人民共和国」か「中華民国」の略称である、
ということをその都度、何度でも、しつこいくらい確認しておく、ということなのです。


    
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弥栄(いやさか)のこと

2020年11月05日 | 重箱の隅
 「万歳」から考えて「弥栄」のことを。
 「弥栄」は「いや栄えに栄えませ」からきた言葉だということを書きましたが、この「いやさか」、そのまま地名にあったりしますよね。「ぃやさか」が本来の発音でしょうから、「ぃ」は発音されなくなって、「やさか」となる。
 「弥栄村」ってあります。で、漢字がなかった頃からの名前だから、別な字を当てる場合もあると考えたら、「八坂」もそうでしょう。「八坂神社」。
 ついでに「八」は字の形から末広がりで縁起が良い、とされてそこら中に出てきます。何もこれは日本だけではないようで、漢字の始まりの国であるシナだって、皇帝直属の軍隊である「禁軍」は別名「八十万禁軍」。
 日本では勿論「八百万(やおよろず)」とか「八百屋(やおや)」とか武門の家柄は「八十」あったから、と武士の縁語として使われるとか。

 で、「八」という「漢字自体」は繰り返しますが日本にはなかったんだから、「ぃやさか」或いは「いや(弥)さかえ(栄え)」こそが大事な言葉なんだということになります。
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本音と建て前

2020年11月04日 | 心の持ち様
 「本音がそんなにえらいのか(やせ我慢をする意味)」
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 2013.05/16 (Thu)
 問われていないことを、まるで待っていたかのように話し始めた。これはどうも本当らしい。
 十分間ほど一方的に話し続けたということで、仮に合いの手のように質問が浴びせられていたとしても、呼び水程度のものであったろう。
 その辺も考慮した上で、十分間は長いのか。それとも短いのか。

 この話が出た時、何だか釈然としなかった。何故、今、唐突に慰安婦問題なのか。
 で、考えたのは、やはり前後から見て、政治工作活動の一環でしかないな、という事だった。

 間違いなく橋下氏は本当のことを言っている。与党自民党が、今、言うに言えないことを、単身、「橋下個人」として言っている。
 何でも今朝の2時ごろまで40回ほどツィートしているらしい。
 周りはみんな非難する。石原氏と松井氏だけが擁護するようなことを言っている。
 維新の内部でも「人気取り」「選挙対策」などと言っているらしいが、橋下氏にとって、そんなことはどうでもいいだろう。自民党に恩を売れば良いだけのこと。
 少なくとも、この発言で韓国の目は橋下氏に釘付けになっているし、シナだって己の国がやってきたことは棚に上げて、例によって加減を知らない批判振りだ。(「日本の政治家が人類の良識と歴史の正義に公然と挑戦する言論を発表したことに驚きと強烈な憤慨を示す」、だって。)

 本来なら、今、これらの国の安倍政権潰しの工作が本格的になる時期のはずだが、この囮(陽動)作戦を無視して工作活動を続ければ、自国内での統制が全く利かなくなる。そして、世界中から本心を見透かされてしまう。だから、どうしてもこれへの対応が必要になる。
 「もしかして」飯島顧問の訪朝とリンクしてるのか?なんて思ったりする。

 橋下氏が何らかの政治工作的意図を以て、の発言だろうという事は明らかです。釈然としないのは、だからそのことではない。
 今回の夕刻の備忘録を見て、
 「ああ、そんなことを言ってたのか。そういう事か」
 、と思ったからなんです。

 備忘録氏の文中にある、橋下氏の言、「世の中、建前では回らない」。 
 その通りです。でも、これ、大変な妄言です。
 そして、備忘録氏が問題にされている通り、もっと大きな問題は米軍司令官にそれを直言したという事です。更には日本軍への賞賛までも打ち消してしまった。


 「世の中、建前では回らない」。そうです。その通りです。
 でも、そんな当たり前のこと言って何になる。
 世の中は、社会は、個々人みんなが幸せになりたいから、助け合うためにつくったものでしょう。
 つまり社会は「本音を実現するために考え出され、つくられた」、「建前」じゃないですか。「世の中、建前では回らない」、なんて見下した言い方するんじゃなくて、「世の中、建前で回すよう努力すべきだ」、というのが政治家じゃないですか。政治家がニヒリズムや打算に走ってどうする。

 性欲の問題は大問題です。
 でも、「性欲を処理してすっきりしたら、明日は一人でも多く敵を殺せ」とでもいうのでしょうか。
 兵士は、剣闘士でもなく、殺しを請け負う殺し屋でもない。国家国民のために必要とあらば覚悟して命を捨てようとするごく普通の人間です。普段は普通に生活している一人の日本人です。これでは有事の際には命と性欲を天秤に掛けよと言ってるのと同じじゃないですか。
 更には、自衛隊にだってこんな軽はずみな事を言える筈がないのに、同盟国の軍司令官に同じことを言う。・・・・言えますか?

 こんなだから、外国から日本軍の優秀性について称賛の声が挙がっても、「性欲を抑えきれないのはどこも同じ。男だから」みたいなことを平気で言う。これ、軍を、特に日本軍を本当に擁護していることになりますか?

 軍人は多くの部分で武人、武士の心の有り様に重なります。一番大きいのは「自律」の心です。
 「性欲を抑え込むこともできないで何の軍人か!」という気持ち。できるできないではないのです。「建前で生きなきゃならない」というやせ我慢をするからこそ、軍人は武士と同じく尊敬された。
 しかし、氏はこの軍人の「痩せ我慢」を「建前では、回らないんですよ」、と一蹴した。

 慰安婦云々よりも、軍人のやせ我慢を侮辱したこと。それも自国のことではなく、同盟国軍のことを同盟国軍の司令官に。
 「痩せ我慢なんてつまらないことしてないで、風俗産業に行かせて発散させなさいよ。でないと、いざという時、十分に働いてくれないよ?」
 こんな言い方されて、腹を立てない方がどうかしている。
 しかし、この言い種を採り上げて、批判、非難したマスメディアは居たか?
 
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 しかし、はや中年の男が「世の中、建前では回らない」との発言までしたようである。一体どれほど狂っているのだろう。ここまで馬鹿だと批判する方も疲れる。「世の中、本音では回らない」のである。本音で回らないからこそ、建前を繕うのである。その繕った建前が、ようやく世の中を回しているのである。そんなところに個人の本音など入ろうはずがない。それをやたらに入れたがるのはエゴイストであり、革命家を気取る狂人である。

                    (略)

この記事の中身で最も恐ろしい部分は、「コントロールできない」「認めないとダメ」「考えないといけない」の件である。この男は、誇り高き米軍司令官に対して、「何々はできない」「何々ではダメ」「何々をしないといけない」と誹謗し、侮辱し、命令したのである。他国の軍幹部に、その前段が如何なる内容であろうとも、「できない」「ダメ」を連呼して、ただで済むはずがない。しかもその前段たるや「聞くも書くもおぞましい下半身ネタ」なのである。

                    (略)

 何しろ「海兵隊の猛者の性的なエネルギーをコントロールできない」と断言しているのである。米軍のエリート中のエリートである海兵隊を、「自らの精神すら制御できない愚者の集団である」と言ってのけたわけである。恐らくは軍人にとって、これ以上にない侮辱であろう。ましてやその指揮官にとっては、全てのアメリカ軍人の名誉に賭けて、許せるはずもない発言であろう。

                    (略)

 日本側の立場として、過去の様々な事件を念頭に、こうした暴言が出たのだというのなら、彼等も本国に報告のしようもあるだろう。しかし、そうではない。「因果関係はない」としての発言である。所詮「命をおとしかねない極限状況」には、あなたがたの部隊は耐えられないだろうから、こんな息抜きは如何か、と女郎屋の主人ばりに躙り寄って、骨の髄まで海兵隊を侮辱したのである。

 集団行動の全くできない男が軍に、しかも他国の軍に、自らの主張を聞けと迫る。大したシビリアンコントロールである。こんな問題を「軍の最重要課題」などと論じている段階で、軍人は元より、シビリアンにもなれはしない。あらゆる方策を講じて、公人の座から引き摺り降ろすべきである。この発言の責を問われるのは、この男ではない。誠に残念ながら我々日本国民なのである。ゲスを公人として選んだのは誰か。一都市の選挙であるという言い訳は、もはや通じない。

                     (略)

 史実として旧軍の規律が極めて高かったことは、様々な場面で立証されている。それは我が国が殊更示さずとも、他国から声が上がるレベルにある。それを「世界中どこの軍においても云々」という発言で自ら否定し、同列にまで落とし込み、そのことによってこれまでの我が国の主張を、その価値を徹底的に貶めた。

 
           「武人の誇りとゲスの本音」

                      ~夕刻の備忘録より~ 


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