CubとSRと

ただの日記

マメができたら

2021年02月23日 | 日々の暮らし
 もう一つ、「始めなければ始まらない」関連で。

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 2015.03/03 (Tue)

 1月14日から運動不足解消のために、と、散歩を始めた。
  一週間余り経った頃、右足親指の先辺りに違和感があった。マメ(肉刺)ができたらしい。左足を踏み出す時の右足の蹴り方がやや強かったようで、靴の中で足が動いたのだろう。
 左足にはできていないのでこれは無意識につくってきた「癖」、なんだろう。
 やや急ぎ気味の歩き方をしているから癖が出てきたんだ。

 ということで、さて。
 昔のことを思い出した。
 木刀を振っているとマメができる。折角稽古に行っているのだから、と、習っている時はつい多めにやってしまう。使い慣れている木刀ならともかく、普段は触れることのない木刀で回数を多くするとたちどころにマメができる。左手の掌、(小指側手首寄り)の端辺りに必ずと言って良いほど1~2センチほどのものを作ってしまう。

 これは掌と木刀が密着せず常に擦れているからで、擦れないようにしっかり握れば良いようなものだが、しっかり握っているつもりでも実際はしっかり握ってないから振った時の木刀の重さに負けてしまうためだ。

 「強く押し付けた状態で擦るとマメができるのなら、軽く握っておいて打つ瞬間(振り切る瞬間)だけ強く握ればいいじゃないか。」

 ですよねぇ~~。

 ところが切っ先の行く速さに勝てないんです。早く握ると切っ先が飛ばない。逆に遅く握るとマメができる。その間の絶妙なところが、いわゆる「手の内」。
 その絶妙なところができないから稽古をしているわけで。

 ということはできない間はマメができる。
 「それなら何度もやってマメがすっかり固くなるまでやればいい」?
 けど、それでは「手の内」は分からないまま。

 こうなると
 「分かっちゃいるんだよ。分かっちゃいるんだけど、できないんだよな」
 と、まるで宿題逃れの小学生みたいなことしか言えなくなってしまう。
 で、どうするか。
 とにかくマメができてしまったのを、取り敢えず何とかしなきゃならない。何とかしなければ稽古が続けられない。
 その場しのぎの応急処置をして、あとは稽古の期間中、だましだましやっていくしかない。

 この「だましだまし」やる、ってのがミソです。保守、っていうんでしょうかね。
 反対に
 「どこをどうすれば良いか、徹底的に解明しなければならない。自己批判だ!」ってのが革新、でしょうか。

 でも、とにかく「今」を乗り切らなきゃね、明日はない。
 目的を忘れちゃならないけれど、中断してマメが直るまで待つ、なんてこと言ってちゃ話にならない。時は待ってくれません。

 そうそう。「まずは本質解明だ!憲法改正を急ぐべきではない」、なんてことが天声人語に書いてあったな。
 木刀の素振りで言えば、
 「木刀なんか持たなくていいから手の内について議論しろ。十年でも二十年でも掛けて答えを出すべきだ。稽古はそれからでも遅くはない」
 ってことだな。(おいおい)

 剣術を習い始めた頃のこと。一、二年経った頃だろうか。
 「マメはできるかね?」
 師範に言われた。
 「今年はまだ大丈夫みたいですけど」
 「手の内が動くとマメができるからね」

 そう言って見せられた師範の手には、当然ながらマメはなかった。大きいけれど、ごく普通のきれいな手だった。
 「マメができたらね、縫い針に木綿の糸をつけて、糸の端に赤チンをつけて十字に縫ったら良いんだよ」

 マメは潰すと痛い。いや、痛いより何より以降、稽古ができない。限られた時間の稽古だから、そっちの方が大問題だ。
 それに自分も痛いけれど、もっと困ったことには、木刀を汚してしまう。

 十字に縫って糸を引っ張り、指で軽く叩くように押さえると乾いた糸がマメの中の水分(リンパ液?)を吸い取ってくれる。
 更に糸を引っ張ると、そこに赤チンをたっぷり含んだ糸の端がやってくる。
 赤くなった糸がマメの中で十字に交差する。改めて指先で叩くとマメの形に皮膚の下が赤くなる。
 全く痛くない、という訳ではないが、稽古の後にこれをやって一夜明けると皮は完全に浮いて痛みは消えている。

 それで稽古をしていると翌日には皮が邪魔になり始める。変に浮いてしまって収まりが悪いような感じになっている。
 といって、ちぎってしまうと真皮はまだ治療中なわけだから、そのままにして置くしかない。ここでも「だましだまし」、だ。
 マメのことを忘れて無理をすると、更に大きな範囲のマメを作ってしまう。

 三日もすれば勝手に破れ始める。取ってしまうと、掌の一部だけに赤インクが染みついたみたいな感じになっている。そして色んなところに触れるせいだろう、いつしか擦れて跡形もなくなってしまう。

 師範に「手の内」のことをちゃんと聞いている筈なのに、その時聞いたことは覚えてない。覚えているのはこの応急処置の仕方だけだ(日記には書いている筈だが)。

 覚えていないのは聞く気がなかった、のではなく、分からなかったからだ、と今にして思う。能力の範囲内、応急処置の仕方を覚えるということしかできなかったのだ。
 では師範の説明は無駄だったのか。そして分からなかった自分の能力不足を悔み続けるべきか。

 自分の能力不足は仕方がない。(その時点では、やはり)能力不足だったからこそ稽古に通っていたわけだから。
 では師範の説明は全くの無駄だったのか。
 とんでもない。
 自分の能力不足を悔やむだけの能力さえ持たない弟子は、難しい「手の内」の話と、一度聴いたら分かる「応急処置の仕方」を同時に聞いて、間違いなく今まで以上に師範に対する尊敬の念を持った。

 分かる分からないではない。
 「身近な応急処置法くらいしか分からないだろうから」、とそれだけを話すのではなく、難しい「手の内」も教える。
 師範の話に分かるところとサッパリわからないところが同居している。

 そこで弟子は「流儀に対する取り組み方は如何にあるべきか」を、身近な応急処置法の理解を糸口として考える姿勢を持つようになる。

 それが証拠に、今でもマメができるたびに応急処置法を思い出し、その時の十字に縫う感触や赤チンで色の変わったマメを思い出し、そして稽古場の板間で防具づくりの作業をしながら、の師範の話を思い出す。

 「無駄」とか「悔やむ」とかいった感情は、それで段々に薄れていく。
 そんなことを後ろ向きになってぼんやり思っている暇があれば、木刀を振ればよい。
 日記ならばペンを持ってノートに向かえば良い。

 「あの時のあれは失敗だった」「あれさえなければ」「反省が足りない」「本質を見極めたのか」「小刀細工で誤魔化すな」

 言うのは自由だが、「今」の「一所懸命な取り組み」を一顧だにしない者が何を言ったって進歩はない。 
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 「禁煙を破った夢」

2021年02月22日 | 日々の暮らし
 昨日の「始めなければ始まらない」から思い出した「初め」や「きっかけ」について以前に書いた日記です。

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 「禁煙を破った夢」 2015.10/11 (Sun)

 タバコを喫っていて、ふと気が付いて
  「あ、禁煙してた筈なのに」
 、と思う。
 そして、何気なく胸のポケットを見ると、ちゃんと煙草の箱が入っていて、それが半分近く減っていて、
 「ああ、そんなに前から、気づかないで禁煙を破ってたんだな。挫折だな、カッコ悪い」
 、などと思う。

 起きて数十分経ってから、そんな夢を見ていたことを思い出す。
 そして、改めて「カッコ悪い」「未練たらしい」、などと思う。
 「まだ喫いたいと思ってるのか、情けない」。

 タバコをやめて十年近く経った頃、まだ時折そんな夢を見た。
 時折ながら、そんな夢を繰り返し見るうちに、起きると同時にタバコを喫っている夢を見ていたことを思い出すこともあり、そんな時には決まって喉の調子が悪いことに気が付いた。

 おかげで、
 「未練からタバコの夢を見る」、或いは「喫いたくなって喫っている夢を見る」
 のではなく、
 「タバコを喫っていた時の喉の状態に近い感触を覚えた時、タバコを喫っている夢を見るのではないか」
 と思いついた。
 タバコに関しては、止めてから三十年余り経った今、さすがにそんな夢を見ることはなくなった。

 ベッドから落ちる一瞬の間に長い夢を見た人がいるそうだが、これも実は本末が転倒しているのかもしれない。
 意図して夢を「見る」のではなく、記憶を呼び起こすだけの話ではないか。
 落ちてから夢の目次を作り、目が覚めてから目次通りに記憶で話を紡ぎ出している可能性が高い。

 そう考えると、何故「いろいろな準備ができてなくて慌てふためく夢」を見るのか、というのも、今現在の生活の中で、「やらなければならない何か」が常に心に引っ掛かっていて、ということなのかもしれない。

 年金暮らしでそんな「常に心に引っ掛かっているもの」、なんてことがあるものか、とも思ったりするが、逆に、だからこそやりたくてもやれない、或いは、やらなければと思いながらも手を付けず、徒に時を過ごしていることなんかが原因では、ということを考える。

 優雅な年金暮らしといっても、安心できるほどの金が常に手元にあるわけではない、いくら焦っても、働いていた頃の数分の一の金が、それも二ヶ月に一度しか入ってこない、ということなんか、その最たる原因だろう。
 
 別な理由は?と考えると、もう一つある。
 「日記を書かなきゃ」「ブログの下書きを作って置かなきゃ」、という強迫観念(大袈裟だけど)もそれなんじゃないかと思う。
 時間はたっぷりあるのに「色々な事情」にかまけてなかなか取り組めない。
 けれど、その焦りの基になる「色々な事情」というやつが、世間一般には通用しない、或いは「何、甘えてんだ」、と蔑笑されかねないものだったとしたら。

 そういう風に書きながら考えてみると、
 「じゃあ、何ができるのだ?」
 というところまでは辿り着く。

 こうやって日記に書いてみれば、徐々に見えてくるものがある。
 急かされて、強迫観念に駆られて、
 「今、何かをしなければ!今、行動し、声を挙げなければ!」
 などといくら焦ったって、作り上げた能力を持たない者にできることとは一体何か。

 気が付いたのなら、はやる心を抑えつつ、地道に実力を作ることに力を注ぐことしかないのではないか。
 思いついたその瞬間から、日記の一行、腕立て伏せの一回、素振りの一つでも始めることが大事なのではないか。 
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たった300回

2021年02月21日 | 日々の暮らし
 夕食は、特に何の用意もせずとも、と思っていた。
 菜の花の浸しがある。野沢菜入りの漬物もある。味噌汁だってある。
 十分に「一汁一菜」、だ。

 ということで食べ始めたのだが、やはり「いくら何でも温かいものを一品くらい」、と贅沢なことを思い始めた。
 で、昨日のアヒージョのオイルにマッシュルームと卵を入れて一品作ることにした。
 
 食べ終わって、もう二、三週間前から、気にはなっていた素振りをしようと思いつく。
 少女終末旅行の名文句「終わらなければ終わらないよ」と同じく、とにかく「始めなければ始まらない」。

 冷蔵庫に、去年の一月末に書いた「今年の(努力)目標」がマグネットで留めてある。
 「早寝早起き 一飲二休(三日に一度だけ、飲む) 素振り300回 習字 」等々書いてあって、台所に立てば必ず目に入るようになっているのだが、「達成できてる!」と堂々と胸張って言えるのは「一飲二休」くらい。
 今年の1月24日、改めて同じ目標で行こうと思いながら、気が付けば2月も中旬に入ってしまった。

 木刀を持って庭に出る。
 やってしまえばたったの300回、どうってことはない。
 「どうってことはない」くらいだから、やったからってたちまち上手くなる、なんてことはあり得ない。
 あり得ないけど、やらなければたちまちどころか上手くなることは「絶対にあり得ない」。
 その300回を今年に入って一ヶ月半近くやってないのだから、上手くなる筈もない。それ以前に「下手」になってない筈がない。

 「下手になっているか否か」、は身体の各部位に無駄な力が入っているか否かで測ることができる。早い話、無駄に力を入れると、そこに痛みとして出てくる。たった300回、数百グラムの軽い簡単に折れそうな木刀で、痛みが出てくるんだから簡単に測れる。
 逆に、重い木刀では筋力の低下を実感する方が忙しくて、無駄な力を点検するまでの余裕がなくなる。

 ということで、やってみた。
 100回はともかく、120回から140回の間が、時間が長く感じた。その辺りが今の集中力の峠なんだろう。
 200回目以降は惰性でやってしまった。
 1秒に一回としたら、300回は300秒。たったの五分だ。

 たったの五分の中、二分過ぎた辺りが(精神的に)「時間が長く感じた」ということは一番しんどかったということ。
 まずは五分間を「気が付いたら終わってしまっていた」と感じるまでにするのが初めの一歩、だろう。
 
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誤嚥

2021年02月20日 | 日々の暮らし
 書き忘れていた。今朝(夜中)、噎せて目が覚めた。

 昨晩、調子に乗って酒の肴を用意しすぎて、当然、十二分に食べた。逆流性胃炎か何かで戻ってきたものを、誤嚥したらしい。なかなか気管から戻らず、しばらく咳き込んだ。
 ここで頑張って咳を続けると嘔吐することになる、と直感、極力頑張らないで咳払いをするだけにした。しかし、何かが引っ掛かっているような違和感は消えない。
 困ったな、これは、と思いながら、それでも少しは軽くなったようなので、大人しく朝を待とうとしていたら、また寝てしまった。

 数時間後、目が覚める。まだ胸のあたりに何か引っ掛かっているような感じがある。
 このままでは肺炎になるかもしれない。肺炎予防の注射は二年ほど前にしているけど、あれはたくさん種類のある肺炎球菌全てに効くというものではないらしい。効かない奴もいて、そいつが暴れた場合、同じように肺が炎症を起こして呼吸困難になり、あの世行き、となる。

 「もうしばらくして、発熱するようなら肺炎ということになる。武漢ウィルスによる肺炎だって、誤嚥性の肺炎だって、とにかく息ができなくなって溺れたような感じになるんだから、たまらんだろうな」
 「肺炎、か。独り暮らしだから、例の『孤独死』ってやつだな」 

 そんなことを思いながら、例の如く、起き掛けの血圧測定。
 上は高めの140台。脈は安定している。
 もしかしたら肺炎?もしかしたら死ぬかも?

 ・・・なんてことを思いながら、どこか他人事というか現実味がなく、悲壮感も恐怖感も全くない。テレビを見たり小説を読んだりしていると、すぐに感情移入してしまって泣いてしまうのに、自分のことになるとそういう感情移入ができないのは、人生の苦しさ、厳しさ、悲しさなどを実感することなく生きてきた冷酷な人間なのかもしれない。

 あの25年前の大地震の朝、人々は整然と並んでコンビニの開くのを待っていた。開店してからも店になだれ込むようなこともなく、順に買い物をしていた。
 取材に来た記者が「何を買いに来たんですか」と質問したら、「特に必要な物はないので、ちょっと食べ物だけ買おうかと」、みたいな長閑な返答をしていた。
 多くの人が瓦礫の下敷きになっている、生まれてこの方一度も経験したことのない、想像すらできないことが数キロ先で起こっている、でも、そんな惨状の発生地点ではないから、やはり、ある種、他の世界の出来事みたいでピンと来なかったのだろう。実感せよという方が無茶な話だ。
 そのちょうど一年前、同月同日ほぼ同時刻に起きたロサンゼルス地震では暴動が起きたのだが。

 我々日本人は、生き残ろうという「生への執着」が、少ないのだろうか。
 それとも、単に危機意識(想像力)が欠如しているのだろうか。
 そうではなくて、成熟した社会の優秀な構成員なのだろうか。
 意拳の王向斎は日本の敗戦時、弟子の澤井健一に「日本人は一度失敗するとよく死にたがる。自分から死んでも何もならない」と諭したという。
 しかし「死ぬことを心安く思い込む」日本人の気質に一目も二目も置くのが世界、でもある。

 あの地震の時も今回の誤嚥も、ただただ寝ぼけ眼で「あ~。このままあの世行きかぁ~~」、なんて思っていただけの奴もいる。
 そんなやつも同等に、いつお迎えが来るか、誰にも分らない。

 
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マンガ「スーパーカブ」第5巻発売

2021年02月19日 | 日々の暮らし
 昼過ぎ、1時半近くまで炬燵に入っていた。ウトウトどころか、しっかり眠っていたように思う。

 ここまで完璧に炬燵に潜り込んでいると、出る時に腰や脚が痛くなる。・・・のが一昨年の冬だった。
 それが去年は、用心さえすればそういうことは滅多に起こらなくなり、今年はそういう用心をすることすら忘れてしまって、何かの拍子に痛みが出て、
 「あれ?いつから治ってたんだろう」
 と思うほどに回復している。

 完全に治っているわけではないのだろう。だから時々痛みを感じる。
 完全に治る時は来るのかというと、それは我が身のことながら何とも言えない。
 ただ、色々工夫したりネットで仕入れた知識(体操やストレッチ)を実践していくうちに治ってきたのだから、また腰痛等が出てきても、少なくとも今度は今の状態にまでなら戻すことができる、という自信がある。
 これがあるのとないのとでは毎日の気分が違う。
 同じ「今」の痛みでも、将来の回復が予見できるものならば、耐えられる。
 対してこの先どうなるか分からないという「今」の痛みは、小さくとも不安がどんどん募っていき、飯も喉を通らなくなる。

 ぬくぬくと猫みたいに心地よい時間を貪っていた猫ならぬ身の奴が炬燵から這い出したのは、「遅くなったけどマンガ、買いに行こう」と思ったからだ。

 確か発売日は今日、9日だ。
 ハーバーランドまで行こうかと思っていたけど、マンガ一冊だけ、だからなあ。取り敢えず、今日のところは近くの生協の入っているビルの書店に行こうか。そこになければ、明日改めてハーバーランドまで行けばいい。
 
 ところが、行ってみたら、ない。発売されたばかりだから、新刊が平積みされていても不思議じゃないんだけど。「鬼滅の刃」ならもう売り切れ、なんてこともあるだろうけど、「スーパーカブ」だから、それはないだろう。平積みするほどは入荷してないだろうし・・・。
 角川コミックスの棚に既刊のものは一冊ずつ並んでいたけど、新刊は、ない。まだ入荷すらしてない?まさか。
 棚の前の同じ角川コミックスを平積みしているところにも、ない。
 こりゃ駄目だ。やっぱり明日、歯の治療の後でハーバーランドまで行くか。

 そう思いながらも、念のため、と店員に聞いてみた。
 「ちょっと待ってください」
 と言って、すぐ探してくれた。
 探すも何も。店に入ってすぐの平積みされた棚の後ろ、店の入り口に背を向けた棚から、サッと一冊。
 既刊の棚に置かれていたのは早くも売れてしまっていたのだろうか。
 そしてこれから陳列し直す予定だったのだろうか。

 マンガそのものは既にネットで見ている。本になったものには、ほぼ毎回原作者のトネ・コーケン氏が、短編1~2篇を書き下ろしで載せているので、本も買わないわけにはいかない。小説の方には載らないこともあるし、載っても改変されているかもしれない。
 まあ、正直なところ、マンガはマンガで、ただ、読みたいから買ってるだけなんだけどね。
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