モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

親友N氏と登る鷲尾城跡と倉科将軍塚古墳(妻女山里山通信)

2009-01-07 | 歴史・地理・雑学
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 山でも歩くかということで、どこかいいとこない?と言われて思いついたのが新年5日に息子達と登った倉科尾根の鷲尾城跡と倉科将軍塚古墳でした。時間は午後2時近くでしたが、倉科将軍塚古墳ぐらいならいいだろうと、登ることにしました。急登をハアハアゼイゼイ20分も登ると鷲尾城跡です。前回一人の時は13分で登りましたが。今回はちょっと気温が高め。

 本郭の高い石積みの城壁は他に類を見ないほどの堅個さといわれており特異な城跡といわれていますが、倉科の畑の土止めの石垣が全く同じ石であるところを見ると、ただ単に地の石をふんだんに使っただけという気がしないでもありません。倉科氏の築城といわれますが、詳細は不明です。

 ここで、鹿島槍ヶ岳の絶景に見とれていたN氏が突然ヨウシュヤマゴボウの実を口へ。あっ毒だよそれ!と言ったのですが、少し甘いぞと言いながらペッと吐き出しました。実はヨウシュヤマゴボウの根には毒があるのですが、実は無毒といわれています。染色に使ったりするようですが、山でこの実を服につけると洗濯しても落ちないので困りものなんです。

 次に堀切をふたつ超えて倉科将軍塚古墳。埴科古墳群として国指定史蹟です。前回息子達と行ったのはここまででした。N氏は古墳背後の深さ10m以上ある堀切を超えさらに登り始めました。そこで、倉科尾根を詰めて天城山から唐崎城跡へ回って生萱経由で車に戻るコースと、天城山から二本松峠経由で北ノ沢を倉科の竹尾(嶽尾)へ下るコースを思いつきました。前者は登ったことがあるので、今回は後者にすることに。これなら日没前には下山できるでしょう。

 倉科尾根を登って赤松林の北山を超え、猪の泥場や熊の糞らしきものを見ながら天城山へ。坂山古墳を見てから反対側の清野と松代のパノラマをN氏に見せて二本松峠から下山。N氏も、なかなかいい尾根だと絶賛。二本松峠からは私も初めての道です。清野の人には倉科坂と呼ばれたこの峠道は、戦前までは重要な交通路でした。わが家の先祖の娘が清野と倉科にそれぞれ嫁いで、二本松峠を越えて頻繁に行き来していたと伝わっています。

 倉科の里に下りたころには、冠着山(姥捨山)の向こうに陽が落ちていくところでした。万葉の里倉科は、「人皆の言は絶ゆとも埴科の石井の手児が言な絶えそね」(世の中のすべての人の言い伝えが忘れられても「埴科の石井」にいる美しい乙女の言い伝えはどうか絶やさないでほしいの意。 )と詠われたところ。また、隣の森と共に杏の里でもあり、春の杏の花はそれは美しいものです。残念ながら美しい乙女にはすれ違えませんでしたが、夕日を浴びながら車に戻ったのでした。

鷲尾城跡と倉科将軍塚古墳のトレッキングのフォトレポは、MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)をご覧ください。
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言葉にならぬ想い(妻女山里山通信)

2009-01-07 | 歴史・地理・雑学
目覚めると一面の銀世界。破壊された山塊は、古代科野の国の大王の墓ともいわれる森将軍塚古墳のある大穴山の東面。歴史の重さも分からぬ愚か者が、採石して四基の古墳もろとも破壊してしまった痕跡。そこを通るのは、上信越自動車道。斎場山をぶちぬき妻女山(赤坂山)を削り、上杉謙信、上杉景勝の故郷へと向かう。重すぎる十字架を背負わせてしまったかなと思う。理不尽な宿命だとも思う。南は、謙信が雑兵を食わせるために冬が近づくと攻め込んだ関東平野。それこそいくつもの長いトンネルを抜けないと辿り着くことはできない。きっと再び春が来ることを信じて君が後ろ姿を見送る。「母子草大人子供之母一人目覚朝之白雪之祈」詠人不知
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